映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

『花の咲く家』 (1963年 松竹 98分 大佛次郎原作)

2020年01月10日 16時28分00秒 | 邦画その他
『花の咲く家』
1963年 松竹 98分

監督  番匠義彰
製作  山内静夫
原作  大佛次郎
脚本  柳井隆雄
    石田守義
    今井金次郎
撮影  生方敏夫
美術  逆井清一郎
音楽  牧野由多可
録音  小林英男
照明  豊島良三
編集  大沢しず

出演者
佐田啓二
岡田茉莉子
岩下志麻
山村聡
笠智衆
小坂一也
冨士真奈美
渡辺文雄
環三千世
細川俊夫
高野真二
幾野道子
穂積隆信
岡村文子
浦辺粂子



一流企業の支店長の夫を持つ女.彼女は離婚を望んだのだが、離婚理由として何も落ち度がない夫は、離婚を認めようとしなかった.弁護士は多額のお金を積むしかなかろうという.女は母親の形見の貴金属類をお金に換えて、離婚の費用に充てようとしたのだった.

弁護士から甥と相手の女の事情を知った土地成金の叔父は、女を訪ねて、この金で離婚して甥と一緒になって欲しいと、多額のお金の提供を申し出た.
けれども女は、そのお金を受け取ることなく、ただ一人旅に出たのだった.

難病に苦しむ人が居たとしよう.その人は多額の医療費をかけて病気を直し健康になった.このような出来事は、一見、お金によって幸せになったように思われるのだが、けれども普通の人と同じになっただけで、幸せになれるかどうかは他の人と同様に、その人の努力によるはずだ.その人はお金によって難病という不幸から逃れたのであり、幸せになったわけではない.

同様に考えれば、別れたくても夫は別れてくれなかった、相手が嫌がっているのを知りながら結婚状態を強いる男と結婚生活を続けなければならないことは、女にとって不幸なことであったのだ.女は母親の形見の貴金属をお金に換えて、離婚費用にしようとしたが、それは不幸から逃れるためのお金であったと言える.

それに対して、叔父が提供を申し出たお金は何であろうか.それは甥の幸せを手に入れるためのお金だったのだ.幸せはお金で買うものではない.女は一人、旅立ったのだった.


『古都』 川端康成原作
双子の姉は貧乏から生みの親に捨てられたが、優しい夫婦に拾われて幸せな生活をしていた.一見、貧乏な親に捨てられて、お金持ちの夫婦に拾われたので幸せになったように思えるのだが、それは違う.優しい夫婦に拾われて、生みの親に捨てられたという不幸から救われたのであり、幸せな家庭に育ったのは、彼女を含め、家族の皆が力を合わせて掴んだ結果である.

妹の仕事は林業で、決して楽な仕事ではなく、辛い仕事と言うべきかもしれないが、けれども彼女は自分の置かれた境遇を、不幸と考えていなかったはずだ.確かに姉より遥かに貧乏な境遇であったが、だからと言ってそれが不幸と決めつけるものは何もない.
妹が自分の境遇を不幸と思っていたならば、姉の手助けは妹を不幸から救う事であったのだが、そうではなく、一緒に暮らそうと言う姉の手助けは、自分の方が裕福な生活をしていると言う比較から行われた行為であり、幸せをお金で得ようとする行為であった.


『犬の生活』 チャールズ・チャップリン
拾った野良犬が、泥棒が隠したお金を掘り出してくわえて帰ってきた.
そのお金で浮浪者の男は幸せになった.チャップリンの映画はこんな話ばかり.お金で幸せになった話ばかりである.

『街の灯』 チャールズ・チャップリン
難病に苦しむ花売り娘.彼女を救おうと、男は必至に働いてお金を溜めようとしたが上手く行かなかった.酔っ払いの男は酔いがさめると何も覚えていない.くれると約束したお金をくれなかったので、男はお金を盗んで女性に治療費として渡したのだった.
お金を盗んだが、捕まって刑務所で罪を償ったのだから何が悪いのだ.....チャップリンはこう言いたいのであろうが.

目の直った花売り娘、彼女が目の見えなかった時と同じように、街角で花を売っていたのなら、男から貰ったお金は彼女が不幸から逃れるためのお金であったのだ.
けれども、目が直った彼女は立派な店を開いていた.つまり、男から貰ったお金で、男が盗んで手に入れたお金で、幸せになった話にしてしまったと言える.
チャップリンには、幸せになることと、不幸から逃れるということが、異なることだとは理解できなかった.
彼は、自身でどう思っていたか知らないが、芸術家にはなれなかった.

『巴里祭』 ルネ・クレール
酔っ払いおじさんのせいで、花売り娘はレストランで花を売ることが出来なくなった.その花売り娘は、酔っ払いおじさんが間違ってくれたお釣りのお金で、元の花家さんに戻ることが出来た.
彼女は幸せになったわけではない、酔っ払いおじさんが彼女を不幸にしたのであり、その不幸から逃れて元に戻ったに過ぎないのだ.

この点が、『街の灯』と『巴里祭』の大きな違いである.


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