『恋文』
監督 田中絹代
製作 永島一朗
原作 丹羽文雄
脚本 木下恵介
撮影 鈴木博
美術 進藤誠吾
音楽 斎藤一郎
出演
道子.......久我美子
礼吉.......森雅之
洋........道三重三
山路直人.....宇野重吉
本屋のやっちゃん.香川京子
兄の礼吉は友人の山路の仕事の手伝い、街娼達のアメリカ兵との手紙のやり取りの手伝い、恋文の代筆の仕事をしていた.彼に英語の才能があればこそ出来る仕事であった.
弟の洋は商売の才能があって、古本屋を回って転売をする手間賃稼ぎの仕事をしていたが、やがて、アメリカ兵から街娼達に送られて来る雑誌に目をつけて、その雑誌を転売する商売を始めたのだった.
田中絹代が扮する、年増の街娼が出てくるけれど、彼女にこう言わせれば、何が描かれているかよく分るはず.
『なにさ、真面目な仕事をしろだと.説教ばかり言いやがって.あんただって同じだろ.手紙の代筆と言ったって、所詮は私達の上前をはねてるのと同じことじゃないか.あんたはいいよ、英語の才能があるから、そうして食べて行ける.だけど才能も何もない女は身体を売らなきゃ食べて行けないのさ』
兄も弟も、二人共、街娼の稼ぎに、つまり進駐軍のアメリカ兵に頼って生きていたのであり、街娼たちとの違いは、何らかの才能があるか無いかの違いだけである.
道子は街娼ではなかった.進駐軍に勤めていて、たまたま知り合ったアメリカ兵と関係を持ったに過ぎなかったのだが、彼女は礼吉に対して、その事を言い訳として話しはしなかった.
顔見知りの街娼たちが、道子を仲間と思って寄ってきた時、弟の洋が、『なぜ、貴方たちとは違うと拒絶しないのだ』責めたのだけど、彼女は、私は街娼ではなかったけれど、街娼たちと違わないのだと、言ったか、言いたかったのか.....ここが一番大切なのに、きちんと描かれていない.
道子が進駐軍で通訳をしていたのか事務員をしていたのか、あるいは皿洗いをしていたのか、何をしていたのかは描かれないけれど、いずれにしても同じ、アメリカ兵に頼って生きていたのであり、その点は街娼たちも、礼吉も山路も洋も変わりはしない.
けれども、道子は『優しい言葉をかけてほしかった』ので、知り合ったアメリカ兵と関係を持ったのだ、と、礼吉に言ったはずである.道子が純粋にアメリカ兵を好きになって関係を持ったのであれば、誰からも責められる筋合いは無く、ことさら街娼の上前をはねて生活している礼吉から責められる筋合いは全く無いはずである.
道子に対して、礼吉はアメリカ兵と関係を持ったことを罵り、弟の洋もまた、街娼たちを拒絶しろと責めたてたけれど、アメリカ兵に頼らずに生きて行くべきは、礼吉であり洋であった.
今一度書けば、道子とアメリカ兵の関係は恋愛であり、それに対して、礼吉も洋も売春婦にたかっていたのである.
これが丹羽文雄の原作の『恋文』ではないでしょうか?.そして、脚本を書いた木下恵介は、どうしようもないクズなので、原作を理解せず、一番大切なところを書き換えて、作品をクズにしてしまったのであろうと思われます.
追記
成瀬巳喜夫が脚本に手を入れて、相当に削ってしまったらしく、洋の女性関係が全く描かれない.
冒頭、洋と一緒にタクシーに乗っていた女、彼女は洋の何だったのか?.仕事にしろ、飲み会にしろ、一晩付き合って朝一緒に帰ってきたのだから、相当に親しい男女の関係であったであろうが、彼女が次にアパートに訪ねてきたときには、『未練が有って来たのじゃない』と言ったので、その時は別れていたと思われる.
事の成り行きが全く描かれないのだけど、おそらく洋は古本屋のやっちゃんに出会って、タクシーで一緒に朝帰りした女と別れることにしたのであろう.
再会した道子に礼吉が酷いことを言ったけれど、この点は好き合った者同士が許し会えば済むことで、他人がとやかく言う筋合いは無い事である.けれども洋の場合は違うはず.
道子が横浜に居た頃の顔見知りの街娼たちに出会ったとき、なぜ決然とした態度を執らないのかと、洋は道子を責めたが、洋にそう言う資格があるのだろうか?.洋は道子は貴方たちと違うと言って、街娼たちを蔑んだ言い方をしたが、そんな言い方が彼に出来るのか.
皆同じ人間のはず.但し、そうした境遇から自ら逃れる努力をするかどうか、それだけの違いのはず.誰にも蔑んだ目で見られ、責められる筋合いは無いはずである.
道子はこう言った.
夫に死に別れて、優しさを求めてアメリカ兵に身を任せた.複数の男に身を任せた自分が汚れた女と言うならば、街娼たちと同じである.
オンリーさんと言われるように、アメリカ兵が日本にいる頃は、皆、関係を持つ相手は一人だけだったようだ.アメリカ兵が帰ってしまい、仕方なく身を持ち崩していった、そんな女性が多かったのであろう.
複数の相手と肉体的関係を持った結果を汚れた人間というのならば、関係のあった女と別れて別の女との結婚を望んでいる洋も、彼も自ら望んで汚れた道を進もうとしていると言わなければならない.
『商売上手ね』と、古本屋のやっちゃんが洋を褒めると、洋はやっちゃんにこう言った.
『(街娼たちから)もっと安く本を仕入れろ』と.
洋は、一見、清く正しい人間に、兄を親身に心配する優しい人間に思えるけれど、無知無学の人間を知能の低い者達と蔑んで観る、冷たい心の人間であった.
監督 田中絹代
製作 永島一朗
原作 丹羽文雄
脚本 木下恵介
撮影 鈴木博
美術 進藤誠吾
音楽 斎藤一郎
出演
道子.......久我美子
礼吉.......森雅之
洋........道三重三
山路直人.....宇野重吉
本屋のやっちゃん.香川京子
兄の礼吉は友人の山路の仕事の手伝い、街娼達のアメリカ兵との手紙のやり取りの手伝い、恋文の代筆の仕事をしていた.彼に英語の才能があればこそ出来る仕事であった.
弟の洋は商売の才能があって、古本屋を回って転売をする手間賃稼ぎの仕事をしていたが、やがて、アメリカ兵から街娼達に送られて来る雑誌に目をつけて、その雑誌を転売する商売を始めたのだった.
田中絹代が扮する、年増の街娼が出てくるけれど、彼女にこう言わせれば、何が描かれているかよく分るはず.
『なにさ、真面目な仕事をしろだと.説教ばかり言いやがって.あんただって同じだろ.手紙の代筆と言ったって、所詮は私達の上前をはねてるのと同じことじゃないか.あんたはいいよ、英語の才能があるから、そうして食べて行ける.だけど才能も何もない女は身体を売らなきゃ食べて行けないのさ』
兄も弟も、二人共、街娼の稼ぎに、つまり進駐軍のアメリカ兵に頼って生きていたのであり、街娼たちとの違いは、何らかの才能があるか無いかの違いだけである.
道子は街娼ではなかった.進駐軍に勤めていて、たまたま知り合ったアメリカ兵と関係を持ったに過ぎなかったのだが、彼女は礼吉に対して、その事を言い訳として話しはしなかった.
顔見知りの街娼たちが、道子を仲間と思って寄ってきた時、弟の洋が、『なぜ、貴方たちとは違うと拒絶しないのだ』責めたのだけど、彼女は、私は街娼ではなかったけれど、街娼たちと違わないのだと、言ったか、言いたかったのか.....ここが一番大切なのに、きちんと描かれていない.
道子が進駐軍で通訳をしていたのか事務員をしていたのか、あるいは皿洗いをしていたのか、何をしていたのかは描かれないけれど、いずれにしても同じ、アメリカ兵に頼って生きていたのであり、その点は街娼たちも、礼吉も山路も洋も変わりはしない.
けれども、道子は『優しい言葉をかけてほしかった』ので、知り合ったアメリカ兵と関係を持ったのだ、と、礼吉に言ったはずである.道子が純粋にアメリカ兵を好きになって関係を持ったのであれば、誰からも責められる筋合いは無く、ことさら街娼の上前をはねて生活している礼吉から責められる筋合いは全く無いはずである.
道子に対して、礼吉はアメリカ兵と関係を持ったことを罵り、弟の洋もまた、街娼たちを拒絶しろと責めたてたけれど、アメリカ兵に頼らずに生きて行くべきは、礼吉であり洋であった.
今一度書けば、道子とアメリカ兵の関係は恋愛であり、それに対して、礼吉も洋も売春婦にたかっていたのである.
これが丹羽文雄の原作の『恋文』ではないでしょうか?.そして、脚本を書いた木下恵介は、どうしようもないクズなので、原作を理解せず、一番大切なところを書き換えて、作品をクズにしてしまったのであろうと思われます.
追記
成瀬巳喜夫が脚本に手を入れて、相当に削ってしまったらしく、洋の女性関係が全く描かれない.
冒頭、洋と一緒にタクシーに乗っていた女、彼女は洋の何だったのか?.仕事にしろ、飲み会にしろ、一晩付き合って朝一緒に帰ってきたのだから、相当に親しい男女の関係であったであろうが、彼女が次にアパートに訪ねてきたときには、『未練が有って来たのじゃない』と言ったので、その時は別れていたと思われる.
事の成り行きが全く描かれないのだけど、おそらく洋は古本屋のやっちゃんに出会って、タクシーで一緒に朝帰りした女と別れることにしたのであろう.
再会した道子に礼吉が酷いことを言ったけれど、この点は好き合った者同士が許し会えば済むことで、他人がとやかく言う筋合いは無い事である.けれども洋の場合は違うはず.
道子が横浜に居た頃の顔見知りの街娼たちに出会ったとき、なぜ決然とした態度を執らないのかと、洋は道子を責めたが、洋にそう言う資格があるのだろうか?.洋は道子は貴方たちと違うと言って、街娼たちを蔑んだ言い方をしたが、そんな言い方が彼に出来るのか.
皆同じ人間のはず.但し、そうした境遇から自ら逃れる努力をするかどうか、それだけの違いのはず.誰にも蔑んだ目で見られ、責められる筋合いは無いはずである.
道子はこう言った.
夫に死に別れて、優しさを求めてアメリカ兵に身を任せた.複数の男に身を任せた自分が汚れた女と言うならば、街娼たちと同じである.
オンリーさんと言われるように、アメリカ兵が日本にいる頃は、皆、関係を持つ相手は一人だけだったようだ.アメリカ兵が帰ってしまい、仕方なく身を持ち崩していった、そんな女性が多かったのであろう.
複数の相手と肉体的関係を持った結果を汚れた人間というのならば、関係のあった女と別れて別の女との結婚を望んでいる洋も、彼も自ら望んで汚れた道を進もうとしていると言わなければならない.
『商売上手ね』と、古本屋のやっちゃんが洋を褒めると、洋はやっちゃんにこう言った.
『(街娼たちから)もっと安く本を仕入れろ』と.
洋は、一見、清く正しい人間に、兄を親身に心配する優しい人間に思えるけれど、無知無学の人間を知能の低い者達と蔑んで観る、冷たい心の人間であった.
汝らのなかで罪無き者、まず石を投げよ.
日本人は一人残らず、あの下らない戦争の責任がある.
そして一人残らず、敗戦の怒涛のなかでもみくちゃになった.
一体誰が誰に向かって、石を投げられると言うんだろう.
作者が言いたいことは最後に述べられているのだけど、映画全体できちんと描かれていると言えるかどうか?.
溝口健二『赤線地帯』
『売春婦が日本の恥ではない.売春をしなければ生きて行くことが出来ない人間がいる、そうした社会であることが恥である』
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ある人の話
戦争中は国鉄の職員も兵隊に取られて、国電の運転手まで学徒動員、女子挺身隊の女の子が就いていたりした.
私は大学に通っていて、いつも乗る電車の駅の改札係りにも学徒動員の女の子が居た.顔見知りになった二人は、ふと気がつくと互いに気心が知れた関係、そう思えていたのだが.
戦争が終わってしばらくすると正規の職員が復員してきて、ある日から、その子の姿を見ることが出来なくなった.
私はお金が無くて学業を続けられなくなったので、休学して働くことにした.少し英語が出来たので進駐軍の通訳に応募したら採用された.そんなある日のこと、街を歩いていて、アメリカ兵と一緒にジープに乗っている、派手な化粧をした彼女を見かけたのだった.
一年ほどしたある、仕事を終えて門まで来ると、門にもたれかかるようにして、アメリカ兵を待っているパンパンの女が居た.
自分もあの女と同じなんだ、と私は思った.私は通訳の仕事を辞めることにした.