最後には鮨・・・
この前に桜海老入りの冷たい蕎麦が出ました。
ふぅぅ~食べたし、飲んだし・・・
そう、デザートもペロリだった
最後は皆で校歌を歌って解散です
最後には鮨・・・
この前に桜海老入りの冷たい蕎麦が出ました。
ふぅぅ~食べたし、飲んだし・・・
そう、デザートもペロリだった
最後は皆で校歌を歌って解散です
刺身ネタは合格です・・・
はぃぃ
魚の揚げ物とホタテ・・・
これって、香辛料が効いて夏向きでしたよ
参加者は21名・・・
意外と大勢でした
肉もしっかりと食べ尽くしぃぃ
12月8日(現地時間7日早朝)、日本がハワイ・真珠湾を攻撃してから今年で70年目を迎えた。
ワレ奇襲ニ成功セリこれを意味する符丁「トラ、トラ、トラ」があまりに有名なこともあり、一般に真珠湾攻撃は終始計画通りに大成功したと受け止められている。だが、実は幸運に恵まれた薄氷の勝利だった。
「信号弾が2発上がったので『強襲』と間違えて、戦闘機隊と艦上爆撃機隊が、我々艦上攻撃機の雷撃よりも先に敵基地に攻撃を仕掛けてしまった。これは大きなミスでした」
空母「加賀」の雷撃隊員として真珠湾攻撃に参加し、数少ない生き証人である、前田武氏(90歳、97式艦上攻撃機・偵察員)は、この奇襲攻撃は“失敗”から始まったと証言する。
真珠湾攻撃は、「真珠湾奇襲」とも言われるが、「奇襲」は敵に察知されていない状況下、たとえば敵戦闘機の迎撃がない状況下での攻撃だ。その場合、魚雷を抱いた雷撃隊が先行して敵艦に魚雷攻撃を仕掛け、続いて地上の敵戦闘機や対空陣地などを殲滅する艦上爆撃機(急降下爆撃機)が攻撃する手順だった。
奇襲攻撃は、飛行総隊長・淵田美津雄中佐の指揮官機からの信号弾1発が合図だった。
一方、敵に察知され、敵戦闘機が待ち構えている状況下などでの攻撃は「強襲」となる。この場合は、指揮官機が信号弾を2発発射し、奇襲とは逆に、制空を担任する戦闘機隊と急降下爆撃隊が先行して敵を制圧した後に、雷撃隊および水平爆撃隊がこれに後続する手はずだった。
1941年12月8日の真珠湾攻撃は、米軍が察知しておらず、完全な奇襲だった。だがそこに大変なミスが発生していたのだ。
「飛行総隊長の淵田中佐機からまず1発の信号弾が上がったので、我々艦上攻撃機隊は突進を始めたんですが、援護する戦闘機隊が動こうとしなかった。そこで、淵田中佐は、戦闘機隊に1発目の信号弾が見えなかったと判断して2発目の信号弾を撃った。これが失敗でした。今度は、艦上爆撃隊が『信号弾2発』を確認して『強襲』と勘違いしてしまったんです」(前田氏)
こうして雷撃の前に、戦闘機隊と共に99式艦上爆撃機の艦上攻撃隊が、フォード島の敵航空基地などに対地攻撃を開始。攻撃を受けた地上施設や航空機は撃破され、黒煙を噴き上げて炎上したのだった。
「フォード島には飛行機のほかにガソリンタンクもある。我々艦上攻撃隊が現場に着いた時は、すでに真っ黒な煙が上がっていた。この黒煙がもし、我々が攻撃を仕掛ける海側に流れていれば、魚雷攻撃は不可能だったでしょう。
というのも、水深の浅い真珠湾内の敵艦を魚雷で攻撃するには、海面すれすれの高度10mで飛び、この超低空から、深く潜らないよう工夫された魚雷を慎重に投下しなければならなかった。もし黒煙が海面を覆えば魚雷攻撃はできなかったかもしれない。だが運よく風が味方して、黒煙が海側に来ることはなく、目標が鮮明に見えた」(前田氏)
雷撃隊は敵戦艦群に肉薄して次々と魚雷を命中させた。この時の様子について前田氏はこう回想する。
「戦艦『アリゾナ』には修理用の小さな艦が横付けしており、雷撃しても魚雷がその小さな艦に当たる可能性があったので、『アリゾナ』を標的から外しました。次に狙ったのが、籠マストが象徴的なカリフォルニア型の戦艦『ウエストヴァージニア』でした。まず我々2番機に先行していた1番機の魚雷が見事にウエストヴァージニアのど真ん中に命中して、バァッ! と水柱が上がりました。
直後に私の機が速度約140ノット、高度10mで突っ込んで雷撃し、魚雷は艦橋下部に命中! 私の機がウエストヴァージニアの上空を航過した後に大音響とともに大きな水柱が上がったのです。私は偵察員として戦果を確認する必要があったので、一部始終を目に焼き付けました。あの光景は今も忘れられません」
だが、雷撃後もそれで安心というわけではなかった。
前田氏によれば、敵の対空砲火も激しさを増し、とりわけ、標的にされなかった小型艦艇からの対空砲火によって味方機が被弾したという。
「雷撃後、北島大尉の1番機が黒煙の中に突っ込みました。黒煙の下には炎があるので、あまり低いと危ないと思いましたが、我々も1番機に続いて黒煙をくぐり抜けた。結局はそれで助かった。黒煙を避けて右旋回した機は、対空砲火に狙われたんです。我々の空母『加賀』だけでも5機がやられました」(前田氏)
今度は黒煙が、自らを守る“煙幕”となったのだ。
黒煙との戦い。それが真珠湾攻撃のもう一つの戦いだった。
終戦から68年が過ぎた。戦後生まれが1億人を超え、総人口の8割近くに達している。太平洋戦争を直接知る者は年々減り、当時の実態を証言できる者は限られてきた。今こそ元日本軍兵士たちの“最後の証言”を聞いてみよう。ここでは元海軍空母「加賀」艦攻搭乗員だった前田武氏(92)の真珠湾攻撃当日の証言を紹介する。
* * *
〈前田氏は大正10年生まれ。昭和13年、大野中学校を卒業し、横須賀航空隊に入隊。16年9月に空母「加賀」乗艦。九七艦攻搭乗員として真珠湾攻撃、ラバウル・カビエン攻撃、ポートダーウィン空襲に参加。17年6月ミッドウェー海戦で重傷を負い、療養のため内地へ戻り、日本近海で転戦、終戦を迎える。〉
昭和16年12月8日午前1時20分に第一次攻撃隊は発艦開始した。最初に零戦、次に九九式艦上爆撃機(九九艦爆)さらに水平爆撃隊の九七艦攻、そしていよいよ我ら雷撃隊の番。訓練通りに飛行甲板を疾走して甲板を蹴った瞬間、重い魚雷を抱えた機体がグッと沈んだ。その瞬間に素早く“脚”をたたむと、フラップ(主翼の高揚力装置)が風をはらんでスーッと浮いていった。だんだん小さくなる「加賀」に対して、心の中で「無事に母港に帰ってくれ!」と叫んだ。
午前3時過ぎに第一次攻撃隊はハワイ上空に到達した。総指揮官の淵田美津雄中佐機からの白流(信号拳銃)が1発なら[奇襲]、2発なら[強襲]の合図。[奇襲]であれば我ら雷撃隊が先に出る、敵に気付かれて[強襲]になったときは急降下爆撃隊が先陣を切って対空砲火を制圧する手はずだった。
ところが淵田機がなぜか2発撃ってしまい、それを急降下爆撃隊が[強襲]と判断して先にオアフ島を爆撃し、真珠湾攻撃が開始された。雷撃隊も碇泊中の戦艦群に肉薄し、我が機の目標は戦艦「ウェスト・ヴァージニア」だった。
操縦員吉川與四郎三等飛行兵曹の掛け声「よーい、テッ!」に合わせて、私が輪状の魚雷投下索を引っぱる。訓練の時に目測で高度10メートルに調整できる者たちだけが操縦員に選ばれていたので、魚雷投下直前には敵が射ち上げてくる機銃弾が主翼のはしっこに当たったりした。投下と同時に、その分軽くなった機体がグーンと浮いた。「ウェスト・ヴァージニア」の艦橋スレスレを通り過ぎ、後ろを振り返ると茶色の水柱が空高く立ちあがっているのが見えた。
攻撃は30分で終了し、指定された集合地点に、魚雷投下後の九七艦攻が次々と集まってきた。真珠湾の海底が浅いせいか、砂利交じりの泥が跳ねて、風防は泥だらけ。再び編隊を組んで母艦に向かい、「加賀」に帰還できたときは本当に嬉しかった。攻撃した「ウェスト・ヴァージニア」は、当時アメリカ海軍最新鋭(ワシントン軍縮条約発効前において最後に建造)の超弩級戦艦で、我が国でいえば、連合艦隊旗艦の戦艦「長門」みたいなものだったからだ。
ただ、魚雷7本を命中させて沈めたはずだったのに、終戦の年に夜間雷撃を行なった際砲撃してきたのが「ウェスト・ヴァージニア」だったらしい。それを後から知って、これじゃ勝てないなと思ったものだ。(取材・構成/久野潤=皇學館大学講師)
ノンフィクション作家・門田隆将氏が100人を超える生還した兵士たちを全国に訪ね、取材した『太平洋戦争 最後の証言』(小学館刊)。三部作の完結編となるのが「大和沈没編」である。門田氏は大和の“航跡”についてこう記している。
* * *
「大和が沈む時は、帝国が沈む時」。そう謳われた未曽有の巨艦・大和は、昭和二十年四月七日午後二時二十三分、東シナ海に沈み、永遠の眠りについた。
大和に乗り込んでいた三千三百三十二人のうち生還したのは、一割にも満たないわずか二百七十六人に過ぎなかった。
戦後七十年近い歳月が過ぎ去り、生き残った乗組員も極めて少なくなった。
私は『太平洋戦争 最後の証言』シリーズの執筆にあたり、最前線で戦った百人を超える老兵たちに取材をさせてもらった。その中には、戦艦大和の生還者も含まれている。
大和の元乗組員十七人とお会いし、その中には沈没時にあの重油の海から生還した方も十四人いた。大和はなぜ沖縄への水上特攻を敢行し、兵たちはどう戦い、そして生還者は、なぜ生き残ることができたのか。長い間、私が知りたかったことを老兵たちは詳細に証言してくれた。
大和が呉の海軍工廠で起工されたのは、昭和十二年十一月四日である。最高の軍事機密だった大和は、その後、四年一か月という歳月をかけて、昭和十六年十二月に竣工した。
大和の初陣はミッドウエー海戦だ。昭和十七年六月、聯合艦隊司令長官・山本五十六が座乗した大和の初陣は未消化のまま終わる。戦場となった海域から五百キロも後方にいた大和が海戦に参加しないまま、日本は惨敗するのである。
破竹の勢いを続けていた日本は、この戦いで空母四隻が沈没し、戦死者三千五十七人を数え、熟練の航空搭乗員が百十人も命を落とす痛恨の敗北を喫した。優れた傍受能力を持っていた大和が後方にいたため、南雲忠一中将が率いる空母部隊は敵の無線を傍受できないまま急襲を受け、壊滅。太平洋戦争の帰趨を決したと言ってもいいほどの痛恨の敗北だった。
大和が戦いの最前線に立ったのは、二年後の昭和十九年六月のマリアナ沖海戦だ。だが、この時も大和は主砲を発射したものの、敵の攻撃が大和ら前衛部隊ではなく、後方の空母部隊に集中したため、力を発揮することなく終わった。
大和は、昭和十九年十月二十三日から二十五日にかけてのレイテ決戦でも大いなる“悔い”を残している。
この時、日本はフィリピンの東方海上に空母部隊を囮にして米主力艦隊を引きつけ、空白となったレイテ湾に大和ら水上部隊が突入して敵輸送船団と陸上部隊の一挙殲滅をはかるという奇策に出た。それは、当時動員しうる艦船をすべて投入した作戦だった。
大和は、レイテ湾突入部隊の中核となったが、三日間にわたる激闘の末、栗田健男長官が土壇場でレイテ湾突入を中止。敵の護衛空母こそ屠ったものの、本来、企図した戦果を挙げることはできなかったのである
ノンフィクション作家・門田隆将氏が100人を超える生還した兵士たちを全国に訪ね、取材した『太平洋戦争最後の証言』(小学館刊)。三部作の完結編となるのが「大和沈没編」である。門田氏は、大和が沈没する時の様子をこう記している(文中敬称略)。
* * *
大和が沈没する時に「万歳」の声があちこちから起こっている。三番高角砲の射手、亀山利一(89)は最期の時、「万歳」を叫んだ一人だ。
「わしら三番高角砲は、ちょうど艦橋の下やで、撃ちつづけたのや。最後、艦が斜めになってまって、(退避の)命令が出たのやわ。わしら走って一番主砲の前のほうに来たら、万歳、万歳しよるのよ」
バンザーイ、バンザーイ……大和と共に死んでいく兵士たちが今生への名残を込めて、そう叫んでいた。
「わしも立ってそのまま、万歳、万歳してな。その時は、敵の攻撃も何もなかったな。あれは、不思議なぐらい静かな中で、万歳の声が聞こえとったな」
万感を込めて万歳を唱和した亀山は、ぐるりとまわってみた。三百六十度、最後の風景を自分の目で確かめようと思ったのだ。
「まあ、これでこの世の終わりやで、ずうっとひとまわりしたのや。最後の“地球”やで、ずうっとな。もう海水が傾いだ艦橋の下についてまって、わしは右舷に走って、右腹の喫水線まで行ったのよ。喫水は、でばって大きいで、結構歩けるでね。水がずうーっと来よるんやけど、まだ大和はまわりよったからな。わしは大和と一緒に最後までまわったわ。それで、ざあーっと海に入っていったな」
亀山は、こうして最後まで大和にいたまま海に入っていったのである。
「一緒にぐるぐるなりながら、そのうち気を失った。その時、家族の顔が一人ひとり映ってきてな。その日の朝、わしは思い出して、親や兄妹の名前を呼んだのや。大和の最期の日やったでな。その顔がひとりでにずうっと頭に浮かんだわ。父、母、じいさん、ばあさん、兄妹……全員の顔が出てきた。それで、銃後を守ってくださいって言ってな」
意識が失われていく時、頭に浮かんだのは、やはり家族の顔だった。
「その時、不思議なことに、自分の葬式まで浮かんできてな。あれは昭和十七年やったか、わしが休暇でひと晩だけ家に帰った時、支那事変で死んだ人たちの村葬をちょうどやっててな。それで、ああ、わしもあそこで村葬してもらえると思ったんやな。
それから、腹に巻いとる千人針と、胸のお守りさまを押さえたのやわ。そしたらぱっと覚えがなくなった。苦しいで、神さまや仏さまが止めてくれたのかわからんわね」
それは、「死」に臨んだ不思議な体験だった。しかし、気がつくと亀山は、重油の海に浮いていた。
「海は油だらけでどろーっとな。あれは飲んだらいっぺんやで。しばらくしたら敵機が機銃で撃ってきたわ。頭の上をまわって反対からも来たな。手を出して、てめえら撃ってみろと叫んだな。二、三回で行ってもうた。それからは小さいのに掴まって浮いとったわな」
亀山が漂流の末に駆逐艦雪風に救出されたのは夕方のことだ。
奇跡の生還を果たした亀山はその後、呉の海兵団に戻って残務整理をおこなっている。そこで、すでに大和で亡くなった兵士たちに届いた実家からの手紙を目のあたりにした。
「大和が沈んだっていうことは秘密になっとったでな。そういう手紙を整理してたら、夕べ、靴音がとんとしたで戻ったかと思ったら、そうやなかった、とか、夢の中であんたが帰ってきたところを見た、とか、そういうことがずうっと書いてあった。わしは、ああ、みんなの魂は、やっぱり、家族のもとに帰ることができたと思うてね。それを知って、なんかほっとしたな」
肉体はなくなったが、戦友の魂は愛する人のもとに帰っていった――亀山は、訥々とそう語った。
戦後68年、戦争を直接知る者は年々減り、当時の実態を証言できる者は限られてきた。今こそ元日本軍兵士たちの“最後の証言”を聞いてみよう。ここでは元海軍戦艦「大和」五番高角砲員、坪井平二氏(90)の証言を紹介する。
* * *
〈坪井氏は大正11年生まれ。昭和18年4月、徴兵により大竹海兵団入団。同年7月卒団、戦艦「大和」に乗り組む。以後、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦と転戦し、沖縄特攻に参加。〉
昭和20年4月7日正午前、戦闘配置に昼食が届けられた。「大和」最後の食事となる握り飯三個とタクアンふた切れ、それに缶詰の牛肉ひと切れ。
12時35分、敵編隊が来襲。対空戦闘が開始されたが、低い雲に邪魔されて主砲の咆哮は聞くことができなかった。我ら高角砲と機銃が応戦するが、左舷ばかり集中攻撃され、私のいた右舷には敵機が近づいてこなかった。1機だけ近づいて、ゴーグルをかけたパイロットの赤い顔が「ニコッ」と笑ったのが見えた。
第二波の攻撃は「大和」に集中し、回避運動による動揺で射撃が難しくなった。キツい臭いと煙が充満してきたと思うと、すぐ隣の一一番高角砲が全員戦死と知らされた。第三波攻撃の頃には左傾斜がひどくなり、高角砲の焼けた空薬莢が砲員に向かって落ちてくる。指揮所から指示が来ても対応できなくなり、そして指示自体が来なくなった。そうなると班長の命令で砲側照準(砲塔から直接敵を狙う)を行ない、とにかくやみくもに撃つしかなかった。
突然、砲塔の窓から海水が流れ込んできた。「総員最上甲板!」と聞こえた時には、すでに全員で上甲板に出ていた。傾斜がさらにひどくなる中、かつて呉のドックで見上げた“赤い腹”(右艦腹)に這い上がった。そこではみんな最後にポケットの乾パンをかじったり、恩賜の煙草を吸ったりしていたのが印象的だった。我々は袖や裾を結わえ、沈没に備えた。
14時25分、「大和」沈没。戦闘服のままで、ズルズルと海の中に潜るように引きずり込まれていった。巨艦の沈下する大渦に巻き込まれ、身体が木の葉のようにクルクル回転した。夢中で水をかき分けようとするが、効果は全くなし。目の前を大小無数の気泡が、白い球となって上がっていった。
気がつくと、真っ黒い油の層になった海面に浮いていた。周囲には戦友の頭や顔が見えた。上官の顔も見える。「よーし、生き残ってやるぞ!」と思った。そこに上空45度くらいから向かってくる敵機が、チカチカ光ったかと思うと機銃弾が飛んできて、一列縦隊に水柱を上げた。一人また一人と黒い頭が水中に没して消えてゆく中、私は運よく駆逐艦「雪風」に救助された。
航空機時代の到来を世界に示したのは誰あろう、日本である。その日本海軍の至宝「大和」が1機の掩護もなく米艦上機と死闘を交えなければならなかったとは、なんという運命のいたずらであろうか。
●取材・構成/久野潤(皇學館大学講師)
ノンフィクション作家・門田隆将氏が100人を超える生還した兵士たちを全国に訪ね、取材した『太平洋戦争最後の証言』(小学館刊)。三部作の完結編となるのが「大和沈没編」である。門田氏は、大和の“出撃前夜”について、こう綴っている(文中敬称略)。
* * *
米軍が沖縄本島に上陸を開始したのは、昭和二十年四月一日である。大和ら第二艦隊に沖縄への水上特攻が命じられたのは、四日後の四月五日だ。
左舷高角砲を指揮した渡辺英昌大尉(90)は、その命令が有賀幸作艦長から士官たちに伝えられた時のことを記憶している。
「大和の広い艦長室に士官が集められました。前に有賀艦長と能村(次郎)副長の二人がこちらを向いて立っておられました。艦長は、“大きな意味で悠久の大義に殉じることが決まった。今回の作戦は水上特攻である。われわれの目的は、沖縄の敵泊地に突入し、敵輸送船団を撃滅することだ。うまくいけば艦そのものを沖縄にのしあげて、砲台となって上陸した敵に砲撃を加える”と仰いました」
それは、その場にいた士官たちの背筋に電流が走るほど迫力のある命令だった。
その夜は、出撃を前にして無礼講の飲み会が艦内でおこなわれた。死出の旅路の「壮行会」である。
それぞれの部署で人生最後の宴会が開かれた。
「酒保を開け!」
三千人を超える空前の規模の飲み会が、能村副長のそのひと言で始まった。
三番高角砲の射手、亀山利一(89)は、開戦時の南方侵攻作戦から戦い続けるベテランだ。
「あの時は、最初、分隊ごとに湯飲みを持って部屋に集まってな。廊下まであふれて並んだねえ。まず一合ずつもらって始めたな。それぞれ軍歌を歌ったりなんかしてな。おい、明日は靖国神社で会おうと言ってな。もちろん、一合じゃ足らん。分隊長が“どうせ沈めてまうのやで、俺の名前で持ってこいっ”て、一升瓶でどんどんもらってきた。飲む人は飲んで、歌って、それで、ああ明日、俺らは靖国神社で会うぞって、ひと晩、すまえた(過ごした)のや」
三千人の無礼講の飲み会を終え、大和がいよいよ沖縄へ向かって出撃したのは、翌六日午後四時過ぎである。
「前甲板に集合!」
乗組員に号令がかかったのは、出航直後、夕日が沈みかかった頃だった。
運用科の八代理(87)はこの時、甲板に集合した。
「出航した時、大和はできるだけ陸のほうを通りました。夕日にかかる頃、全員、前甲板へという号令がかかって、みんな、ばあーっと行ったんですわ。甲板の一番主砲の砲塔の上に能村副長が立ってね。ちょうどその時、風が吹いたんです。
そしたら、陸地から結構離れとるのに桜がばあーっと大和まで飛んできたんですよ。それ見て、ああこの桜、日本ともこれでお別れだ、と思ってね。ひとひらを拾って胸のポケットに入れました。海岸線では、万歳、万歳ゆうて住民が手を振ってくれていました」
何気ない風景がそれぞれの脳裡に刻まれていった
お盆なので?
いや、あまりにも熱いので「肉」が食べたいと・・・奥様がぁぁ
近所にある和牛が旨い店に出かけてきました。
8名が2組で貸切状態でしたが・・・
隅のテーブルに座れました。
久々に牛タンを~
これで1.500円也
とっても柔らかくって美味しい牛タンでしたよ
この店の一押しは・・・
和牛の大串焼
柔らかって~とってもジューシィィでした
不気味な地震だった。8月に入って最初の休日、強い衝撃が宮城県を中心に東日本を襲った。原因は東日本大震災の余震だが、あの未曾有の大災害から2年5カ月たっても余波は収まっていないことになる。それどころか、専門家は余震が100年単位で続き、先の大震災級のほか、首都での巨大地震を刺激しかねないとも警告するのだ。
不意を突いたニュース速報に肝を冷やした人も多かったに違いない。
4日午後0時28分ごろ、宮城県石巻市で震度5強の地震が起きた。東北を中心に北海道から東京都、静岡県にかけて震度5弱~1を観測。気象庁によると、震源地は宮城県沖で、震源の深さは約58キロ。地震の規模はマグニチュード(M)6・0と推定される。
宮城県内の消防によると、仙台市では自宅にいた30代の男性が落下した照明器具で頭を打撲するなど複数のけが人が出た。
本紙で『警戒せよ! 生死を分ける地震の基礎知識』(毎週木曜)を連載する武蔵野学院大特任教授の島村英紀氏は「東日本大震災の余震です。2年以上たってもまだ続いているのかと思う方もいるでしょうけど、米国では200年も続いている例がある。今後も続くとみていい」と指摘する。
先の震災のエネルギーは史上最大級のM9・0だった。「経験則ですが余震は、本震の(エネルギーの)マイナス1が起きる可能性がある。ですので、脅かすわけではありませんが、M8級はありえます。しかも、先の震災の南端は茨城県にまで及んだ。今後、大きな余震が起きれば、首都直下などの大地震を刺激する恐れもあります」と警告する。
余震の南海トラフ連動型地震への影響はどうか。島村氏は「ないでしょう」としながらも、別の意味で「警戒が必要」と話す。
4月13日に兵庫県の淡路島付近でM6・3(最大震度6弱)が起き、8月3日には静岡県西部の遠州灘でM5・1(同4)が発生した。
「この2つの地震は、将来的な南海トラフ(連動型)地震の先がけといえなくもない。実際に1944年の東南海、46年の南海地震の約20年前にこういう現象があったので注意すべきです」(島村氏)
地震は忘れたころにやってくる。油断は禁物だ。
男子400メートル個人メドレー決勝で早大1年の瀬戸大也(19=JSS毛呂山)が4分8秒69で金メダルを獲得した。
4泳法の総合力を競う個人メドレーでは、五輪を合わせ日本人初の世界一。金メダルを期待されたエースの萩野公介(18=東洋大)は4分10秒77で5位だった。昨年のロンドン五輪で代表入りを逃した瀬戸は、初出場の大舞台で同学年のライバル萩野を上回る見事な泳ぎを見せ、世界のメダリストの仲間入りを果たした。
ラストスパート。萩野を振り切った瀬戸がこん身の力を振り絞って真っ先にゴールに飛び込んだ。4分8秒69。日本勢としてはこの種目で初の金メダルを獲得した。出場を逃したロンドン五輪から1年。悔しさを糧に急成長した瀬戸が大舞台で生涯最高の泳ぎ。1メートル74と体は決して大きくない19歳の新鋭が「自信を持って臨む」と挑んだ決勝で輝いた。
予選は得意の潜水キックで飛び出すと、2つ目の背泳ぎで自分のタイムを確認。後半は力を抜く余裕を見せながら、萩野を上回る2位で通過した。上り調子の勢いを決勝にそのままぶつけ、萩野、ペレイラら有力選手を抑えた。
2人で五輪に出る。萩野と瀬戸が交わした約束だった。だが、昨年4月のロンドン五輪選考会、3月にインフルエンザにかかった影響から3位に終わり涙をのんだ。「全然やる気がなくて」と練習に身が入らなかった。「でもロンドン五輪を見て、萩野が自信をつけて帰ってくる、だからもっと頑張らないと(差を)離されると思ってスイッチが入った」。一念発起し、昨年12月の世界短水路選手権では400メートル個人メドレーで優勝した。
4月に早大に進学し、練習環境も整った。これまでは短水路のプールでの練習が主で、長水路の大会になるとどうしても後半にタイムが落ちてしまう弱点があった。だが、今は大学のプールと国立スポーツ科学センターの長水路で練習。0~25メートルと25~50メートルのラップタイムの差を梅原コーチから言ってもらい、常に後半を意識。5月のジャパンオープンでは400メートル個人メドレーで萩野を破るなど地力を付けてきた。
萩野に劣らず、志は高い。「世界に視点を置かないと戦えない」と多種目でメダルを量産したフェルプスら米国のスターを目標にしてきた。「タフになりたい」と昨秋は短水路(25メートル)で争うW杯で世界各地を転戦し、平泳ぎやバタフライにも出場した。
3年後のリオデジャネイロ五輪は複数種目で上位を狙う。最も得意とする400メートル個人メドレーで世界一。バルセロナで新たなスターが誕生した。
▼瀬戸大也 とても幸せです。今までの400メートル個人メドレーで一番短かった。
◆瀬戸 大也(せと・だいや)1994年(平6)5月24日、埼玉県生まれの19歳。JSS毛呂山―埼玉栄高―早大。昨年はロンドン五輪を逃したが、25メートルプールで争った12月の世界短水路選手権の男子400メートル個人メドレーで金メダル、200メートル個人メドレーで銀メダルを獲得。今年4月の日本選手権は200メートル、400メートル個人メドレーでともに2位。1メートル74、70キロ。血液型A。