拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

   私にとって写真・・・とは?

2024年03月02日 | 必撮無眼流

  明日で相方が入院してから一週間。 

  鬼のいぬ間の洗濯・・・ではないが、断捨離としてテレビ一式(ビデオ、DVD機器)とスイスに来てから撮影したモノクロフイルム(300本分)と

  密着シートを思い切って処分した。その他にも地下の小さな物置にある写真作品群も処分するつもりが、きつい風邪にかかり中断したが近々実行するつもりだ。

 

  歳も歳だけに、(過去の)活動の制限は必須、それに地下の小さな物置が、使ってない写真作品やらで飽和状態・・・久しぶりに独身時代の気分に還り

  心機一転のつもりで写真類の処分、特にフイルムを捨てるというのは『過去の時間』を捨てるようで、ある種自分の生前葬をする気分・・・。

  (但し、すでに作品として出来上がっているモノのネガだけは選択して保存、デジタル化もしてある。)

 

  写真家としての過去の自分の生前葬をするにあたり、自分にとって写真とは、なんであったのかを・・・探究し、その結果をも共に埋葬しなければ

  本人も浮かばれないだろう・・・ということで考察することにした。

 

  21歳のとき、関西の芦屋駅前にあった小さな芸術学院、『芦屋芸術学院・写真科』に入学、わずか2年の期間であったが、

  私にとってある意味人生で最も充実した非常に濃い期間であった。

  『写真』のなんたるかもまったく知らない状態、ただ直感的に『これだ!』と、突入した世界・・・は、今思えば案外に『深淵』な世界であったのだ。

 

  コマーシャル写真の先生方は地元関西の三流カメラマンであったが、ただ『写真概論』を担当した今駒清則先生は入江泰吉の弟子であり

  同時に大阪芸術大学の先生で、週一回の彼の授業『作品評』・・・というのが私を成長させた授業であった。

  畳一畳の大きさの発泡スチロール板の上に自分の作品を並べ、先生そして同期の仲間十数人と一緒に観て、先生の評価をいただく・・・という時間であったが

  これに私は全力を注ぐことになった。つまり今駒先生に観てもらう為に、次の週までに作品を作り、展示する・・・という事が2年間続いた。

 

  写真作品は作るだけではなく、『評価』を受ける・・・という過程を経て初めて完了するというものであったが、この行為はある種『禅問答』の自分なりの『答』を

  老師ならぬ、今駒先生にぶつけていた・・・行為そのものであったと言える。

  その過程の中で、『私の写真』を良いにせよ悪いにせよ『評価』を下す者は、私によってその人の実力を『評価』される立場にある・・・ということにだんだん気が付き

  私は自分の作品が出来上がったとき、極力『自他不二』の視点で見詰め直し納得が行くものを『作品』として表示し、『文句を言わせないぞ!』という決意でのぞんだが

  作品を観ていただく時点では自己を『無』にして参考になる意見は大いに取り入れる心の柔軟さも忘れないように努めていたように思う。

  もちろんこの当時、『自他不二』とか『無』とかの佛語は知らなかったが、心持ちはそういったものであった。

  『写真』は『真実を写す』の略語だとすると、自己の内外の真実の重ね合わせを写す、予想以上に深〜い芸術とも言えそうだ。

 

              

  この写真は『デザイン』の授業での作品で、レタリングを駆使しての22歳の作品。

  気負った所が私らしいが、無意識ながら必死に『己事究明』の道を探っていたのだろう・・・

 



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