拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  S君に哀悼の意を捧ぐ

2024年10月09日 | 娑婆惰罵駄(シャバ・ダバダ)

  先日、相方の友人、知人らが参加する総勢120人の大コーラスがローザンヌの大聖堂で行われるというので、相方一人で出かけた夜・・・。

 

  私は一人り家で留守番・・・となったが、こういう時に彼女とは共有することの出来ない、私だけの様々な『郷愁の念スポット・タイム』

  というような観念におちいる事があり、それというのもSNS時代に生きる我々の宿命なのか?

  ・・・FacebookやTwitter、Instagramで探索が可能そうな友人の顔を思い浮かべながら、発作的に検索したところ。 

 

  中学、高校と同級生であったS君が、それなりに老けたといっても十分な面影を残した笑顔でスパゲティを食せんとする写真をFacebookで発見した。

  東京綜合写真専門学校を経て、フリーカメラマンになった・・・事と、共に卒業した北海道の高校名が記されてあった。

  ただし、Facebookは長続きしなかったようで、次にTwitterを検索すると、これも2年ほどで止めたようだが、

  この頃彼に、2人の娘(中1、小4?)がいた様子が短いツイートで読み取れた。

 

  考えてみると、高校時代S君が親父さんの形見のカメラを教室に持ってきた時、

  私は生まれて初めて『カメラ』というずっしりと重い写真機を手に取ってみたわけで、この一件がもしかすると、

  私が後に『写真道』に向かった契機の一つであったとすれば、S君との因縁は浅からぬものがあったのだろうか… 。

 

  しかし、実際には中学校前半では親友になるほどの勢いで親しくなりそうであったのが、後半では向かうべき

  『道』が違う・・・とハッキリ感じた、いわば私の最初の、我が道を行くべく『自覚』を促した事件であったように思う。

 

  それでも同じ高校でブラスバンドに所属していたし、友達の一人として互いに学内では時々言葉も交わしていたが

  卒業とともに、互いに上京しながら全く音信不通となり、1980年代に私は東京に8年ほど住んでいたが、彼のことは完全に忘れていた。

  であるから、SNSというものの展開がなければ、S君の事は『郷愁』の彼方でかすかに息づく程度の存在であったであろう・・・。

 

  しっこくインスタグラムを検索すると、S君の名前があり、『数年前よりギャラリーを兼ねたBarを始めました・・・』とあって

  Barの写真やら、写真作品やらをたくさん投稿していた。

  『へーっ』と思いつつ、Google map で場所を検索・・・次回東京に行く時にはこのBarを訪ねて、S君を驚かせてやろうか…と,

  思いながら何で検索したか思い出せないが、『前マスターの亡きSさんからお店を引き継ぎ』・・・という一文に眼が止まった。

  その一文を何度も読み直し、インスタグラムやFacebook、Twitterを再度検討して、その後の消息がわからないことから

  S君が他界したことを私は確信した… 。

            

             S君と私が写っている写真はこれしかなかった図 (断片的なSNSでは間違いも多く、間違いであってほしい… )

  写真上、私の左上に『アポロ』の看板が見えるが、はたして1969年(私17歳)7月20日に史上初有人月面着陸し

  『That's one small  step for man,  one giant leap for mankind・・・(人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である)

  とアポロ11号の船長、ニール・アームストロングは宣った。 (このブラスバンドの行進はその年のものであろう)

  そしてその言葉こそは、釈迦がこの地上で悟りを開いた際に、一人頷いた想いではなかったか・・・と現代人である私は思うのだ。

 

  S君の数少ないTwitterフォロワーに、何故か『オノ・ヨーコ』があって(失礼!) オノ・ヨーコの、今は『X』をのぞくと

  今日10月9日は、ジョン・レノンの誕生日であった。(生きていれば84歳の誕生日・・・兎に角、おめでとう!)

  

  



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