我が写真家『一撮』君の生前葬はこれで、つつがなく何の後悔もなくすんだかな〜・・・と、軽く自分の書いた記事を読み直すと
なんか肝心なことを書き忘れているような気がしてきた。
以前ブログに書いたが、写楽賞というので、『坂本龍一』賞というのを貰ったとき、作家の中上健次さんが私の耳元で
『あたなは(小説を)書けますよ』・・・と言ってくれた時、私は彼が誰であるか知らなかったということもあったが
内心『書けないから、写真をやってるんだよ!・・・』と言いたかった気持ちを抑えて『そうですか』と返事をかえした事を思い出す。
しかし、実際に言いたかったことは、『文章で書けない世界(次元)を表現したいから写真をやっているんですよ』・・・と、
自分の深奥にあるいまだ言語化できていない事柄を自分にも彼にも伝えたかったのではなかったかと・・・今では思うのだ。
そうなのよ、写真は視覚芸術・・・というか、視覚芸術の中でも、1/100秒で撮れてしまうという意味もこめて、じつに『非言語』のところが
最大の特徴であるわけで、それは小説とは異次元レベルにある写真、そこを深く追究することなしには、一撮も浮かばれない・・・ことに気が付いた。
その意味で、写真は指導するといっても案外に指導することの難しい芸術であるとあらためて思う。
高額なカメラで、とにかくシャッターを切りさえすれば、一応何かがそれなりに写っているわけで、写真を撮るのに特別技術がいるわけでもない …
というところが、結局その写真家の内面というか、何を自分は求めているのか・・・というあたりに問題の焦点が当てられてゆくものであったのだ。
だから、写真を撮るときは、全身全霊を込めた直感によるシャッター切り、『視覚された場面が愚脳に言語化される』以前、ほとんど剣道の打ち込む際の
『気合』のようなもので、その意味でも写真は激しく『非言語』表現であった。
しかし、この『己事究明』の門前まで来ていながら、『私の写真術』ではそれ以上前に進むことが出来なかった。
今思うに、禅の旗印『不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏』・・・とある中、写真と共通するのは『不立文字・教外別伝』というか
『教外別伝』は『仏教経典』を意味しているからそもそも別物として、案外『直指人心』というのが、写真を真剣に探究することで至ることのできる境地
なのかとも思うが、やはり究極の処までゆくにはそれなりの『大疑』が自己の中になければならなかったのだと思う。
禅修行がある程度深まったような気がした時でも、私は『直指人心』がよくわからずにいた。この4っの旗印の中でもこの『直指人心』だけは
文言としてもなんだかよくわからない言葉であったのだ。
写真活動を通して、無意識に『己事究明』としての『直指人心』を探求する旅にでた私は、知らぬ間に『禅』に出会っていた。
そして、『直指人心』はじつに『非言語』界のことであった・・・。
今日の午後、退院してくる相方・・・独り暮らしに慣れてくれば、嵐のような・・・。
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