『仏教と華』の関係に私はいまあらためて注目している。
なかでも『蓮華』と仏教とは切っても切れない関係があって、それは仏教がインドで発生、発展した事も理由であろうが
『煩悩の泥沼から美しい悟りの花を咲かせる』・・・という仏教の特徴を見事に象徴し、仏像なども蓮華座が表されたり
手に蓮華そのものを持っている仏像もよく見かけ、仏教がどのような教えであるかを端的に示している。
『華』によって『端的に示している』はずの仏教であるが、案外誰も『そこ』に注目しなかった・・・。
修行によって悟って『仏』になる・・・という一面が仏教においてあまりにも強調され、
植物のように『華を咲かせる』という本来備わっているDNAをただ開花させる・・・という最も大切な主張がないがしろにされてしまった。
仏教に関する屁理屈は、9世紀中国唐代の禅僧『臨済禅師』が悟った時のエピソードで終わっているはずだ。
先輩僧が臨済が見所があると見込んで、老師に『仏法に真意を聞いてこい』と言われ、素直にその通りにすると
臨済の質問が終わらぬうちに、老師から棒で叩かれてしまった。何故叩かれたのかわけが分からない・・・
先輩僧に、一回じゃわかるもんじゃないと励まされ、もう一度行くと、再び棒で叩かれた。
そういったことが、3度あり、すっかり参ってしまった臨済はあきらめて下山しますと、音を上げると
この和尚を紹介するから、彼の処に行け・・・とアドバイスされた。
その和尚のところに行き、これまでの経緯を話すと、『お前の老師はなんて、親切なんだ。3度も懇切に指導してくれたのに
こんなところまで来て、何をグダグダ言っているのか!』と怒鳴られ、それを聞いた途端、臨済禅師は大悟した・・・という。
その時臨済禅師は、『あの老師の仏法って、こんなことか〜』と、さっきまでメソメソしていた男が大口をたたいた…そうだ。
私はこの話が大好きで、どこがいいって屁理屈をただ、ただぶっ叩く老師・・・の一幕が痛快で、ほんのさっきまで
泣きべそをかいていた臨済が、打って変わって大口を叩くというところがなんとも言えない。
で、その『華』って結局、主語を介在させない『愛』のことで、仏教ではそれを『慈悲』と称している。
この写真の湖は『ジュラ湖』といってジュラ山脈中にあり、今朝はじつに『明鏡止水』そのものだった。
秋はその気配を律儀にも『腰痛』というわかりやすい仕方で示してくれ、有り難いような、迷惑なような・・・
「愛」には裏に「憎しみ」の意味が重なり合っているようで…、なんか信用できないような。
慈悲には裏がありません。私の解釈ですが。