私の本棚の一画には本と共にあたかも太極拳をしているようなポーズの『シヴァ像』があり、その後ろに
たぶん40年頃前に円覚寺居士林で頂いた『修養聖典』が置いてある。
物を大事にしない自分が、よくぞ40年もの間私と共に居てくれる事を感慨深く思う。
1mほどの横長の紙を折り畳んだだけの紙片であるが、今改めてじっくり見ると紙の裏表に
有名な般若心経や座禅和讃や四弘誓願の他に食事の前後に読むお経など12の経文が載っている。
規則に厳しい割に、居士林ではこれら細々としたお経に関しては別段、間違えようが、ちゃんと覚えてなくとも
叱られることはなかった。当時老師は、『居士は経典など覚えんでもいい…』というような感じであった。
だから、『修養聖典』を両手に挟んで読んでもいい時以外は、先輩や指導してくれる雲水が唱えるお経を、私たちは
耳から聞いて口まねで唱えていたのであるから、いまだに意味がよくわからないお経もある。
そんな中に禅寺を卒業(中退?)してから、あるお経の文句に、つくづく本当にその通りであるなぁ…としみじみ思う一句がある。
それは『開経偈カイキョウゲ』という経文であるが
『無上甚深微妙の法は 百千万刧にも遭いおうこと難し 我今見聞し 受持することを得たり
願わくば如来の真実義を解し奉らんことを』・・・というのだ。
(一刧とは百年に一回、天女が降りてきて衣で撫で減らす岩山の時間単位)
仏法というものには百千万刧にもなかなか、出会うことは難しい・・・と言っている。
私のような北海道の田舎育ちの猿が、よくぞ仏法に出会ったと思う時、この経文の一文をしみじみと噛みしめるのだ。
いや、出会った人も沢山いるだろうが、仏法を『有り難い』・・・と心から思える時期を持つ人はどれほどいるだろうか…。
この『修養聖典』を頂いた当時は、何にも分けも分からずただただオウムのように唱えていただけであったし
これについての説明など一切ないのだから、当時から40年後の私が今更『有り難い』などとは仏様でも想定外であろう。
いつもカッコいい菩薩の像を好むが、布袋様はあのスマートな『弥勒菩薩』の化身だそうであるが
娑婆で活動するには布袋姿がより親しみやすい…とはいえる。
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