先日、『スナックおけい』のママさんとの会話が動画になり、私のYoutube 初デビューとなった。
生き恥をさらすようで、ちょっと躊躇はあったが、そんなことを言ってられない歳でもあり、『東洋自分なり研究所』の所長として
普段考えている事を、広く聞いていただける良い機会でもあるので、ママのおけいさんと酒を酌み交わす事となった。
話の内容は私、馬骨の『禅の素晴らしさを伝えたい』・・・という気持ちを前提に、『考えるな、漢字ろ!』から『漢字方程式』にまで到った
いきさつなどを中心に会話を交わしたが、後で動画を拝見すると、馬骨のまったりもたついた話を、さすが高学歴のおけいさん、スッキリと
分かりやすい表現にしたかと思うと、合いの手として発言する短い言葉のはしばしに非常に感慨深い洞察が開陳されているのを発見して
馬骨がこれまで言語化することが出来なかった、私自身の問題を解明する糸口を示してくれていたのだ。
例えば、おけいさんのこの一言 『 でも、言語化しないと知性が測れないんですよ 』・・・。
禅は『不立文字』といって文字や言語の排除を主張する…立場であるのに、禅を称揚する馬骨が、『考えるな漢字ろ』やら『漢字方程式』などと言って
やたらに文字言語に拘泥するという、この矛盾は一体何なのか? ・・・という問題を解明するのに、彼女のこの一言は素晴らしいヒントとなっている。
私の意見というのは無学の者のもので、学術的ではまったく無いことを前提に話すが
一部の(しかも重要な)漢字というのは、古代インドの佛教経典サンスクリット語を中国語に漢訳する際に、優れた佛教徒によって
曰く言い難い事柄などを漢字表現する『文字』を新たに創作された・・・と私は考え、それ等を私は『佛語』と称す。(フランス語を意味する仏語と峻別)
『不立文字』の修行で培った『曰く言い難い』事柄を、優れた佛教徒によって文字言語化された佛語は、今現在、一般の文字言語と混在し
その真意を解読されることもなく、ひっそりとその光を内に秘めているのみ。
知性は言語化で測れるが、(般若)智性は佛語による解読でなければ測れない・・・。 ということで、禅僧は『円相』を描く・・・『 ◯ 』
考えるな漢字ろ! N16 Don't think , Feel
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