先日、ピーター・バラカンさんのポッドキャストを聞いていると、文化人類学者・辻信一氏を迎え、スローライフをテーマにした近著
『ナマケモノ教授のムダのてつがく』を中心に、非常に有意義な話をされる中、『タイパ』なる言葉をはじめて耳にした。
昔、『コスパ』という言葉があったが、デジタルネイティブのZ世代にとっては、『短時間で必要かつ有益な情報にたどり着く』ことがより重要となり
高い『タイム・パフォーマンス』を求める・・・という意味で『タイパ』なる略語が産まれたのだという・・・。
私等が若い頃も、『高い効率性』を社会は求めていたが、『AI時代』の昨今、その精度とスピードは『効率性』という言葉では表現が古い・・・ということなのか。
この番組の中で、辻信一氏は、『タイパ』を求めるあまり、
『答』を簡単に手に入れる若者達に対して、逆に『問』を継続して持ち続ける『力』の弱体化に警鐘を鳴らしていた・・・のが印象的。
というのも、『タイパ』と真逆の位置に存在しているのが『坐禅』であると考える私にとって、辻信一氏の警鐘はじつに正しい・・・と思ったのだ。
文化人類学者として、辻信一教授は東洋思想を十分知ったうえで『スローライフ』を提唱されていると思うが
実地に『坐禅』を修行した馬骨としては、『タイパ』を重視するデジタルネイティブの身体性の伴わない『チエ』には『危うい』モノしか感じない。
●『坐禅』は『究極のスローライフ』であり、同時に公案という『問』を時間制限無しに問い続けることを前提にした『行』であること。
● 私は『坐』を『UFO』にたとえる事があるが、『UFO』には時間が無いという意味で『超スピード』、それはある意味『究極のタイパ』でもあるのだ・・・。
これまで何度か私の坐禅初体験を語ったが、
初めて坐禅した時、私はあまりの時間の無駄ぶり+足痛・・・に、『坐禅』することのバカバカしさに対し、烈火の如く怒り心頭に達した・・・。が、
一方で、これまでの私の時間観に『あれ・・・待てよ…』と、『疑問』を呈する自分を観たのである。
これってまさに『タイパと坐禅』問題そのものであったのだ。
坐のままで 娑婆駆けめぐる 菩薩かな 30余年 坐る間もなく ・・・馬骨
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