拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

 死に際の説法〜自灯明・法灯明

2021年10月04日 | 観自在

  仏教というものを改めて学ぼうとする人々にとって、仏教は案外取り組みにくい宗教ではないだろうか。

  宗派が多いわりに、僧籍にある人による腑に落ちる説法もほとんど無いに等しい現状では無理もないし

  また、仏教の本質を説法できる僧侶もじつは圧倒的に少ないのだと思う。(最近ではYoutubeなどで説法する僧も出てきた)

 

  禅の修行をした私にしても、自分が仏教徒であったと実感するのに何十年かかったであろうか。

  そもそも禅は、私が仏教徒であるかどうか…そういったことは一切問わない。

  禅仏教では、いつか気がついたら仏の掌にいた・・・と知ることが何より重要なのだ。

 

  2500年前に仏性というものが我々各人に備わっていることを、教えようと説法を始めたのがお釈迦さまで

  その意志を継いだ弟子たちが今日まで延々と述べ伝えてきた結果、仏教というものがかなり煩雑なものになってしまい

  仏法の内容を説法するよりも、寺院を経営するうえで葬式と先祖供養に偏ってしまっている。

 

  その煩雑になった仏教の根本的なところを観ると、釈迦の死に際の説法に有名な『自灯明・法灯明』があって

  私はこのわかりやすい説法が好きで、初めて何かの本でこの説法に出会ったとき、ストンと腑に落ちた気がしたし、

  さすが釈尊・・・とも思ったのだが、最近になってこの説法についてこんなことを私は考えている。

 

  こんな大事な『自灯明・法灯明』の説法、なんで80歳の死に際になるまで、説法しなかったのか?・・・と私は疑問に思った。

  で、やはりお釈迦さまも人間であったのだなぁ・・・としみじみ感じ入ることができた。

  死に際になるまで、このセリフは思いつかなかった・・・のだと。

  仏の説法は対機説法と言われ、相手に応じて話を使い分ける。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る…の例えのごとし。

  で、この場合は質問もよかったが、釈尊のコンディションも背水の陣ではなかったか?

  つい仏教の本質をチョロっと言ってしまったようなのだ。

  『人に頼るのではなく、自らをよりどころにしなさい(自灯明)、他のものをよりどころとせず、法をよりどころにしなさい(法灯明)』…と。

      

     涅槃像の仏様のこのポーズは、長い間、四畳半のアパートでテレビを観る私のポーズそのままであるのが気まずい・・・

  

 

  

  

 

  



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