豊 饒 と 深 淵 ・・・十七文字のドラマ
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俳句は詩である。
詩は世界である。
そして世界は私である。
そして私は空である。
★ フォト575z98
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掌や空即是色山笑ふ
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1・ ひょんなきっかけ
だが私は未だ俳句を知らない。’89年にひょんなことを契機に俳句に興味を持った。ひょんなことというのは、娘の緒呼さんが「読んで」と見せにきた十七文字だった。
> 秋の日に女は持たぬのどぼとけ
というものであった。私はなぜか驚嘆した。緒呼さんが作ったということに驚嘆したのだった。
しかし、次の瞬間には、疑っていた。緒呼さんがこんな俳句を作れるはずがない。
同僚の先輩に俳句をやっている河上学さんがいた。「この句を知らないか」と私は尋ねた。翌日、河上先輩は一枚のコピーを私に見せた。連作のなかに、
> 春の灯に女は持たぬ喉仏
というのがあった。やっぱりそうか・・・と私は奇妙な感慨に陥った。
緒呼さんにその一枚のコピーを見せた。
「ああ、ばれたか」と緒呼さんは明るく笑った。緒呼さんはいつかのテレビでこの句を知ったそうだ。その句がなぜか心に残っていて、いたずら心で私に紹介したのだった。その句は日野草城という人の有名な俳句だった。
その日から私は俳句を作り始めた。
先輩の河上さんが私の師匠だった。
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2・俳句入門
俳句に無関心だった私の作る俳句は作法も何もなく、無茶苦茶だった。師匠から丁寧な指導を受けて、俳句の基本みたいなものが少しわかってきた。少しおもしろくなってきたので、先人の俳句を無作為に読み始めた。
ある「事件」があって、私は三ヵ月間、野山を彷徨した。その時、俳句は自然への接近の仕方を私に身につけさせてくれた。ある「事件」は私の内面のドラマを絶望的に変換させたが、俳句はその内面のドラマを表出できるものではなかった。そのことは逆に、私にそのある「事件」を超克させてくれる営みを開示してくれていたともいえる。
不当配転で、久留米に飛ばされ、人に対する無関心のバリアの中の日常が続いた。現実からの逃避のごとく私は俳句を作っていた。アナーキーな私は、俳句に対してもやはりアナーキーであったが、他流試合のつもりで新聞や雑誌に投句して自分の俳句の位置を確かめていた。アナーキーな俳句は全くといっていいほど採ってもらえなかった。その内、採ってもらえる俳句を作るようになっていた。その頃が私の俳句入門と言えるのかもしれない。俳句らしい俳句を作り始めたのだ。
そして、’91年6月、同僚と句会みたいな集まりを作った。
<紅こびとの会>と名付けた。
初心がなつかしい。
3・紅こびとの会の名称について
句会を持とうということになって、藤田・本木・青柳の三人で会の持ち方やメンバーについて話し合った。色々呼びかけてみたが、皆素人なのでどんなものになるのかイメージも掴めない誘いだったこともあって、うまくいかず、それでも六月六日に準備会を持った。ともかくも少数でも始めてみよう。やっていく中で会の中身も作りあげてゆく。会の報告をしながら会員も増やしていこうとゆことにした。準備会のメンバーは、本木・石川・藤田・辺見・青柳の五名。
藤田さんがかって句会に入っていたことがあって少しはイメージを持つことが出来たが、後はおぼろ。楽しくやってゆければいいんじゃないかとゆことになった。
まずは会の名称を決めよう。
色々おもしろい名称が出されたが、仁の提案で紅こびとの会と決まる。
> 紅小人楓若葉に群れ遊ぶ 本木
これは本木さんの句である。机に楓のあの可愛らしい赤い実を据えて見つめること四時間。本木さんは遂にその楓の実の姿に<紅小人>を見いだしたのであった。風に揺れる楓の実はほんとに紅小人さながらなのだ。仁はその言葉の発見にいたく感動した。
「みちのくの星入り氷柱吾にくれよ」とゆう鷹羽狩行の句があるが、この「星入り氷柱」とゆう言葉を産み出した鷹羽狩行敗けてはならじと格闘していたときだけに、本木さんの「紅小人」が新鮮だった。じっと四時間、楓の実を見続けていた本木さんは、いつのまにか楓の実に同化して、その心は日常を突き抜けて童心に還っていたのだろう。「紅小人」はその童心そのものなのだ。
俳句を作るとゆうことは、あらゆる柵や現実の憂から解放されて、しばし童心に還ることなのかもしれない。童心に還ることによって物のいのちに触れることなのだ。日常の惰性の中で見失っている物の本質や真実を裸の心で掴み取ることなのだ。あるいは事物や自然にメルヘンを発見することなのだ。四時を友とし、造化に還ることを忘れてはならない。
今や地球はわれわれの掌の中で瀕死の小鳥のように喘いでいる。経済効率が最優先され、エコノミック・アニマルが跋扈する現実を撃たなければならない。いのちに対する畏敬の念を甦らせなければならない。自然が発する警告に心を痛めなければならない。風の谷のナウシカのように本物の怒りをもって大空を翔けめぐらなければならない。
俳句を作るとゆう行為を通して、わたしたちは四時を友とし造化に還ることができる。四時を友とし、造化に還ることを通して、わたしたちは命の根源に触れ、新しい自分自身に出会うことができる。言い換えれば、紅小人になるのだ。脱日常。脱構築。
そうゆう思いをこめて、仁は会の名称を紅こびとにしようと提案したのだった。
みんなの賛成を得て、会の名称は紅こびとに決定した。
> 紅こびと名付けしひとの乳児の世話 藤田
藤田さんは紅こびとの第一回句会に、ちゃんと本木さんに対する存問の句を贈ってくれた。
発光し飛翔し月の七変化 仁
仁の句も紅こびとへの挨拶だった。紅こびとの会員一人ひとりが己のいのちのありかを見いだし、いのちの力において発光し、いのちの力において飛翔し、紫陽花の花のようにより深く七変化してゆくことを心から願うのだ。
・・・『紅こびと 第1号』より
<紅こびと>という言辞は差別語ではないか、という議論もしたが、<いのち>の象徴、メルヘンの言葉として、差別イメージを脱却することをめざした。
4・単純化の鍛練
紅こびとの会も七回を終えた。お互いに色々のことを語り合った。俳句がお人柄を語りもした。
俳句を始めていいことの一つは、何事につけても新鮮な驚きをもって対するようになったことだろう。その驚きを会員相互に共有できたことだろう。五七五の世界にいろんな角度から参入して体験を共有していくのはたいへん楽しいことだ。
人にはそれぞれの哲学がある。普段誰に語るでもなく、主張するでもなく、また自分でも取り立てて哲学しているわけでもないが、その人のその人らしさというのはやはりその人の哲学といっていいものだろう。俳句にはその人らしさの哲学が素直に現われてくる。その人の哲学に触れることは出会いのもっとも楽しみとするところだろう。
深まりゆく秋と共に、紅こびとの会ももっともっと深まってゆくことだろう。
・・・『紅こびと 第7号』より
しかし、紅こびとの会も石川さんの転勤でなんとなく消滅してゆく。
私にとっては非常に貴重な鍛練の場であったが、それぞれの事情が差し障りを多くしていった。私はまた他流試合の投句を拠り所にして俳句を作り続けた。
紅こびとの会では自由な発想を展開して何か新しい世界に挑戦できそうな予感をもっていたが、投句の世界は不自由だった。だが、その不自由さが、かえって私を単純化させてゆく過程ともなった。私はこの単純化の中に豊饒と深淵を見つけだそうと試み始めていた。
5・不断の発現としての五七五
瞑想に似て強力の汗の顔 仁
冬波の低きも力漲れる 仁
一粒の露に永劫ありにけり 仁
根源的なるものの豊饒さに心奪われる時がある。
存在の発見と私の消滅あるいは拡散・・・そういう稀有の体験を私に惹き起こしてくれるのは五七五のドラマなのだ。
松のことは松に習え、とは芭蕉の教えだが、五七五のドラマは「松は私だ。私は松だ」という空の世界を表出させる。言葉が世界を開示するように、五七五は私を空即是色する。私の深淵に広がる空を湧出させる。私とは不断の発現である。
掌や空即是色山笑ふ 仁
掌に私は春の山を見た。というよりも、掌が、忽然として、春の山として発現したのだ。それは変貌というのでもない。言葉の錬金術でもない。ただそれは五七五の世界なのだ。
だが、まだ、空即是色する五七五の世界は私の独り善がりの幻視の世界にすぎない。直観が力となる技を獲得しなければならない。あるいは五七五が私のマントラとなる力を養成しなければならない。
私の俳句開眼はいつの日にかはじまるだろうか・・・。
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