好奇心全開!!遊行期を遊ぶ

 遊行期も今から上り坂、やっと命の不思議に目覚めたような感じです。
 玄牝の門を敲きます。

【転載】戦争告発に生きた報道記者が突き付けられた”重い真実”です

2005-03-16 17:07:25 | 時事問題
戦争告発に生きた報道記者が突き付けられた”重い真実”です。
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「私たちの車はゆっくり走っていた。アメリカ人は理由なく発砲してきた。ニコーラは私の腕の中で死んだ」――ジュリアーナ・ズグレーナ記者はイタリアに帰国し、拘束事件と血まみれの解放劇について語りました。

 単なる事故だと主張する米国に異議を唱える生の証言は圧巻です。それだけではありません。この戦争がイラク社会にいったい何をもたらしたのか、報道に何ができるのか、そして人生でもっとも大切なものは何なのか。その“真実”を突き付けられて戸惑う、一人の人間の姿が浮き彫りになります。

 銃撃の二日後、イル・マニフェスト紙上に発表されたこの手記は、アメリカのCNN、英国のガーディアン紙、フランスのリベラシオン紙によって、いち早く全文が翻訳されています。ただそれらには、原文から大きくニュアンスのずれた表現や省略、明らかな誤訳があることが判明しました。そこで今回TUPでは、すばらしい原文のニュアンスがなるべく忠実に伝わるよう、イタリア語から生の翻訳をお届けすることにしました。
                      今村 和宏/TUPメンバー

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「私の真実」
ジュリアーナ・ズグレーナ
イル・マニフェスト紙(イタリア)
2005年3月6日

 私はまだ闇の中にいる。あの金曜は人生の中でもっとも劇的な日だった。拉致されて何日もたっていた。拉致犯たちと直前まで話していた。彼らは何日も前から私を解放すると言っていた。だから私は何時間も待ち続けていた。彼らが話していたのがどれだけだいじなことだったかは、後になってからしかわからなかった。「移動に関する」問題について話していたのだ。私は、毎日「お守りしてくれた」見張り番二人の態度からその場の空気を感じ取れるようになっていた。特に私の望みに気を遣ってくれた一人は信じられないほど得意げだったので、何が本当に起こっているかを確かめるために、ちょっと挑発的に、私がいなくなるから嬉しいのか、それとも居続けるから嬉しいのか、たずねてみ
た。すると、「あんたが帰ることはわかっている。いつになるかははっきりしないけどね」と、私がびっくりし喜ぶことをはじめて言ったのだ。何か新しいことが起こっているのは確かだった。ちょっとしてから、二人がいっしょに部屋に入ってきて、私を慰めるように冗談っぽく言った。「よかったな。ローマへ出発だぞ」と。「ローマへ」とまさにそう言ったのだ。

 何か変な気分になった。その「ローマへ」という言葉にすぐ解放感を感じたが同時に一種の空虚感が心の中に生まれたからだ。拉致されてから今までで一番むずかしい瞬間が迫っていたのがわかった。今までに体験してきたことがすべて「確かなもの」だとしたら、今や「不確かなものだらけの箱」が開かれようとしていた。それは今までより厄介なものだった。

 服を着替えると、そこへ見張りが戻ってきた。「さあ、送って行くぞ。でも、俺たちといっしょにいることを悟られるような素振りはしないこと。さもないとアメリカの連中が介入してくるかもしれない」と言われた。聞きたくなかったが、やっぱりそうだった。一番嬉しいその瞬間は同時に一番危険な瞬間でもあったのだ。誰かに、いやアメリカ兵に鉢合わせしたら、銃撃戦が始まっただろうし、拉致犯たちは当然応戦しただろうから。

 目隠しをされた。ときどき目が見えない状態になるのには慣れはじめていた。外の様子としてわかったのは、バグダッドでは雨が降ったということだけ。車はぬかるみ道をゆっくり走って行った。いつもの拉致犯二人と運転手がいた。たちまち聞きたくもない音が聞こえてきた。車が止まったあたりの上空をヘリコプターが低空で飛んでいたのだ。「落ち着け。向こうから探しにくるから。10分もすれば向こうが探しにくるから。」彼らはずっとアラブ語で話していた。あとはわずかのフランス語、そしてたくさんのひどい英語で。今度もそんな話し方だった。

 そして車を降りて行った。私は身動きもできず目隠しのまま取り残された。目には綿をかぶせられサングラスをかけられていた。じっとしていた。どうしようかと考えた。今とは違う状況になるまでの秒数でも数えようかな。それって自由かな。そう思って頭の中で秒数を数えかけた瞬間、味方の声が耳に飛び込んできた。「ジュリアーナ、ジュリアーナ。ニコーラだよ僕は。心配しなくていい。ガブリエレ・ポーロ(マニフェスト紙社長)と話した。もう安心して。自由になったんだから。」

 ニコーラは綿の「眼帯」と黒のサングラスをとってくれた。私は安心した。でもそれは、その場の状況のおかげではなかった。第一どんな状況かもよくわからなかった。そうでなくて、この「ニコーラ」の話しぶりにほっとしたのだ。彼は、止めどもなく話した。優しいことばや冗談を浴びせかけてきた。体を撫ぜてもらったような温かい慰め、ずっと忘れていた「ことばの慰め」をやっと感じることができた。

 車はガード下を走り続けた。水溜りを避けようとしてスリップしそうになりながら。みんなバカみたいに笑った。なんという解放感だ。ここまできて、バグダッドの泥道でスリップした上に、交通事故でも起こしたら、そんな話、かっこ悪くて誰にも話せない。ニコーラ・カリーパリは私の横に座りなおした。運転手は二度ほど、空港に向かう途中だと大使館とイタリアに報告していた。米軍がそこらあたりを厳重警備していたのは明らかだった。空港から1キロ足らずにさしかかったころ、ああ・・火花しか思い出せない。火と銃弾の雨を浴びせかけられ、その1、2分前までの楽しそうな声は押し殺されてしまった。

 運転手がイタリア人だと怒鳴り始めた。「イタリア人だ、こっちはイタリア人だ」ニコーラ・カリーパリは私を守ろうと私に覆いかぶさってきた。そしてすぐさま、そう、すぐさま息を引きとったのがわかった。私の上で。私も体に痛みが走ったはずなのだが、わけがわからなかった。とその瞬間、拉致犯たちの言っていたことが稲妻のように頭によみがえった。彼らは私を解放することに最後までとことん責任を持つと約束していたが、気をつけるようにとも忠告していたのだ。「あんたが帰還することを望まないアメリカ人がいるから」と。あの時は、それを偏見に満ちた、取るに足らない言い草だと切り捨てていた。ところが今や、そのことばに、何よりも苦い真実の味を感じつつあった。

 でもこれについては、もうこれ以上、話せない。

 私にとって一番劇的な一日だった。だが、拉致されてからの一ヶ月は私の人生を根底から変えてしまった。一ヶ月間、ずっと自分自身と向き合った。自分の一番根深い信念にとらわれて。一時間一時間、自分の仕事の意味を徹底的に問い直した。彼らはときどき私をからかっては、なぜ帰りたいのか、残ればいいじゃないかと迫った。プライベートな人間関係をしつこく聞いてきた。ふだんは疎かにしているけれど本当は一番たいせつなもの、それに私の注意を向けたのは彼らだった。家族に。「あんたの夫に助けを求めろ」そう言った。実際、皆が見た最初のビデオで私はそうした。私の人生は変わってしまった。NGO「バグダッドへの架け橋」のイラク人エンジニアで二人のシモーナといっしょに拉致されたラード・アリ・アブドゥラジズも「私の人生はまったく変わってしまった」と言っていた。ただ、そのときはピンとこなかった。でも今ならわかる。真実のつらさと無力感を身をもって体験したからだ。

 拉致されて最初の数日間は一粒の涙も流さなかった。私はとにかくひどく腹を立てていた。質問を投げつけたものだ。「でもなぜなの! この戦争に反対の私をなぜ拉致するの?!」と。そうすると、彼らも頭から煙を上げて反論してきた。「おまえが町にいるイラク人と話しに出て行くからさ。ホテルに閉じこもっているようなジャーナリストは絶対に拉致しないさ。それに戦争に反対なんて言っているのは、ただのカモフラージュかもしれないだろう。」私も負けてはいない。「私のように、か弱い女を拉致するのは楽でしょ。アメリカ兵で試してみたらどう?」と挑発する。イタリア政府に軍隊を撤退するように働きかけても無駄だとも主張した。彼らの交渉相手になれるのは、イタリア政府でなくて、戦争にずっと反対してきたイタリア国民だけだと。

 ジェットコースターのような一ヶ月だった。明るい希望とどん底の憂鬱の間を往復する。拉致された金曜日の二日後の日曜日、パラボラアンテナの立つバグダッドの家の中に拘束された私は、ユーロ・ニュース・チャンネルのテレビ・ニュースを見せてもらった。ローマ市役所の建物の正面に巨大な私の写真が掲げられているのが見えた。心がじわっと温かくなった。と次の瞬間、イタリアがその軍隊を撤退させないなら私の死刑が執行されるとの宣言が告げられた。私は恐怖におののいた。でもすぐさま彼らは、それが別のグループだと保証してくれた。そんな宣言は信じなくていい、単なる「挑発者グループ」だと。彼らは二人とも兵士のなりをしていた。でも一人は愛想がよさそうな顔をしていたので、彼によく尋ねたものだ。「本当のこと話して。私を殺すの?」 かと思うと、一風変わった相互理解が進むこともあった。こともあろうに彼らと。頭のてっぺんから足先まで隠した信心深いワッハーブ派(スンニ派原理主義)の女が家の中を廻り私の世話をしていると、「さあ、テレビの映画をいっしょに見よう」と誘いに来たりした。

 拉致犯たちはとても信心深いグループに見えた。コーランのことばで祈り続けていた。でも私が解放されたあの金曜日、毎朝5時に起きて祈っていた一番信心深そうな彼が「おめでとう」と言いに来た。イスラム原理主義者にはめずらしく、私の手をびっくりするほど強く握り締め、「おとなしくしていたら、すぐにでも出発できる」と付け加えた。愉快ともいえるこんな話もある。二人の見張りのうちの一方がテレビを見て、青い顔をして私のところへやってきた。理由は、ヨーロッパの街々に掲げられた私の顔写真とトッティ(人気サッカー選手)だった。そう、トッティ。彼はローマのファンだと白状し、お気に入り
の選手が「ジュリアーナを解放してくれ」と書かれたユニフォームを着て、グラウンドに下りてきたのを見て、困惑していたのだ。

 私は、もはや何の拠り所も見出せない「空間」で暮らした。とてつもなく弱々しく感じた。自分の確信をすべて失った。以前はあの汚い戦争を告発しなければならないと考えていた。そしていま選択を迫られていた。ホテルでじっと待つのか、それとも仕事をしに出て拉致されてしまうのか。「もうだれも来てほしくないんだ」拉致犯たちは私に言った。でも私はファルージャの虐殺について避難民のことばで話したかったのだ。ところが、その朝にはもう、避難民やその「リーダーたち」は私の話を聞こうとしなかった。私はイラク社会が戦争のために成り果ててしまった状態をありありと指し示す例をまさに目の前にしていた。彼らは私に彼らの真実を突きつけてきた。「もう誰もいらない! どうして自分の家にじっとしていないんだ! 俺たちにインタビューして何の役に立つと言うんだ!?」 最悪の副作用。「コミュニケーションを殺す戦争」が私にも襲いかかってきた。今まであらゆる危険を冒してきたのは何だったのだろう。ジャーナリストをイラクに行かせまいとするイタリア政府に挑戦し、戦争と「選挙」のせいでこの国が成り果てた真の姿を報道する私たちを嫌う、あのアメリカ人に挑戦して――。

さて、こうした拒否反応を示す彼らイラク人たちは間違っているのだろうか?

(翻訳:今村 和宏/TUPメンバー)
原文(イタリア語)URL:
http://www.ilmanifesto.it/Quotidiano-archivio/06-Marzo-2005/
http://www.ilmanifesto.it/Quotidiano-archivio/06-Marzo-2005/art7.html

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