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余命にも学び昂揚散る桜
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青柳仁 > 「原発に反対するのは私自身のため。だまされた自分にオトシマエをつけるためです」。
> 。「地球上の命は全て掛け替えのない存在と考えるのが、私の個人主義。誰かの命を犠牲にし、差別を生む原子力は許せない」
小出裕章助教の業績に敬意を表します。そのつらぬく個人主義のスタンスは道標です。
無能無才のぼくに真似できる世界ではありませんが、その至誠の心には学びたいと念じます。
いつでも学びに戻れるように、シェアさせてください。
余命にも学び昂揚散る桜 仁
われ往くときも学び念じつ
☆☆☆ rw04中村 隆市さんが写真をシェアしました『 小出裕章 京大助教・定年インタビュー 』 をシェアしました。 ★★★ genpatu-koide-rw04
☆☆☆ 以下、 【 転載 】 です。 ☆☆☆
中村 隆市さんの写真 中村 隆市 2015年4月4日 ·
小出裕章さんのような「お金や地位に左右されない」本当の科学者が少数ながらも日本にいることが救いであり、希望です。
◆小出裕章 京大助教・定年インタビュー
(2015年3月23日 東京新聞)から抜粋
京都大原子炉実験所の小出裕章助教(65)が、今月末で定年退職する。強大な「原子力ムラ」と対決し、45年。その歩みは負け続きだったという。大学で教授のポストに就くことはなかったが、自らの思いには誠実に生きてきた。それは夭逝(ようせい)した愛息に教えられたことでもあったという。福島原発事故の終わりが見えない中、定年後も、自分にしかできない仕事を模索していきたいと語った。
■反原発私自身のため
今月17日、大阪府熊取町の京大原子炉実験所にある小出助教の研究室。書棚にあった大量の本や資料などは、数えるほどになっていた。「廊下や倉庫の書棚にあった分を含め、拾てました。どれも実験所の仕事にまつわるもの。定年と同時にその仕事はなくなります。これからの私にとっては意味のないもの」
節目を迎える感慨についても「何もないです。定年は単なる社会的制度。雇用関係が切れるだけ」。あっさりした言葉だが、簡単に語り尽くせない半生の裏返しのように聞こえた。
1949年8月、東京都台東区の下町で生まれた。進学校の開成中学・同高校時代は一日も休まない「良い子」。盛んに宣伝された「原子力の平和利用」という言葉に感化され、担い手になることを夢見た。
都市化が進む東京を嫌って東北大ヘ。大学のある宮城県では、女川原発の建設計画が浮上していた。目にしたのは原発立地を都会ではなく、過疎地に押しつける差別の構図。大学3年の70年、小出助教は反原発の立場に転じた。
「原発に反対するのは私自身のため。だまされた自分にオトシマエをつけるためです」。当人はこの姿勢を”徹底した個人主義” と名付けるが、独善とは一線を画す。「地球上の命は全て掛け替えのない存在と考えるのが、私の個人主義。誰かの命を犠牲にし、差別を生む原子力は許せない」
大学院修了を前に就職先として選んだのは原子力推進の研究機関、電力中央研究所だった。相手の土俵に乗り込み、原発をやめさせようとした。しかし、採用決定の寸前、女川原発の反対運動に参加していたことが伝わり、破談。その後京大原子炉実験所に応募し、4年に入所した。
■愛息夭逝 自分に素直に生きよう
そこで出会ったのが「熊取六人組」の仲間たちだ。大阪・熊取の実験所に属しながら反原発を訴えた6人を指す。70年代に始まった伊方原発訴訟で住民側の証人になったことから、彼らの存在が脚光を浴びるようになったという。
6人のうち、小出助教の先輩は瀬尾健氏ら4人、後輩は一つ年下の今中哲二氏だ。「入所した当時から既に知っていた仲。皆、原子力に抵抗していたから」
6人組は週一回の会議のほか、自主ゼミや和歌山県日高町で毎年営む合宿などで常時議論を交わした。
「原子力は複合領域。私は自分の仕事の社会的な意義を捉えたかった。そう考えたとき、6人組は大変ありがたい存在だった」
6人組は家族ぐるみで付き合うほど仲が良かったという。小出助教も3人の息子に恵まれていた。
ただ、障害がある状態で生まれた次男は、半年でこの世を去った。「人間の運命が不条理で不公平であることを心深く感じた。人間はいつ死ぬか分からない。自分の思いに素直に生きるべきだと強く思った」
■私でなければできない仕事があれば、引き受けます
小出助教は全共闘世代でもある。向き合ったのは、大学当局や機動隊だけではない。学問や科学のあるべき姿も問い直した。
「人間には、未知の領域を知りたいという抑え難い欲求がある。研究者は国家や権力から独立し、真理の探究に専念すべきだ」
自身がたどり着いた真理は「原子力は危険で破滅的であり、犠牲を押しつける差別の問題でもある」だった。だが、こうした考えは圧倒的に少数派だった。
「突き詰めれば原子力は軍事の問題。日本という国家は原子力を進め、核保有につなげたい。そのため、原子力研究は国家の思惑に左右される。研究者はこの状況を自覚して行動すべきだが、出世したい、給料を上げたいと考え、国家に抱え込まれていった」
■福島 見続けなければ 事故は進行中
熊取6人組は原子力の危うさを研究、公表し、原子力の利用に歯止めをかけようとしてきた。しかし2011年3月、福島原発事故が起きてしまった。
「緊急事態を理由に、汚染地域に住民が捨てられている。捨てられれば、生活者として放射能を忘れ、復興を考えるしかない。『放射能を口にするヤツは復興を妨げる。黙ってろ』というのが、福島の現状だ」
一方、故郷を追われた人たちも数多い。そして、事故から4年たった現在、国は早々に生活支援を打ち切ろうとしている。「片や加害者の方は、誰も責任を取ろうとしない。異常としか言いようがない」
反原発運動も一時の勢いを失ったように見える。「いまは福島が忘れ去られる過程にある」。どうしたらいいのか、という問いには「分かりません」とだけ答えた。後継者を育てる余力もなかった。「いまとなっては手遅れ。仕方がないと思っています」
小出助教は「負け続きだった」と語る。ただ、助教というポストについて「実験所で最下層の地位」と認めながらも「私には大変恵まれた立場。居心地がよかった」と話す。
実験所での仕事は所内で出る放射性排水などの処理だった。「自分の仕事をきちっとやる限り、上司は一切注文を付けず、自由にさせてくれた。私は最下層の職員なので、命令する人もおらず、自分がやるべきこと、やりたいことに集中できた。個性を重んじる京大の校風があったからこそで、反原発を訴え続けても最後の最後まで弾圧されることはなかった」
■仙人になります
定年退職後、新たな定職には就かないという。がらんとした研究室で、小出助教は達観したように「仙人になります」と語った。
生まれ育った東京には戻らない。「信州で暮らします。暑いところが苦手ですし。妻と相談して、何年も前から決めていました」
しかし、俗世と距離を置くことは、そう簡単にできそうにない。「福島原発事故は、敷地の中でも外でも進行中です。完全に目をつぶることはできません」
実験所を離れれば、放射線関連の機器も使えなくなる。さらに自らの老いも実感している。しかし、淡々とこの先を見ている。
「定年なんて、本当に大したことじゃない。住むところは変えます。自分の人生設計を考えるよい機会だとも思っています。年を考えると、仕事はだんだん減らさざるを得ないですが、私でなければできない仕事があるのなら、引き受けようと思っています。ただ、半年先という範囲で。半年以上先は、生きているかどうか分かりませんので」
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◆原子力安全研究グループ
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/
◆原子力廃絶までの道程 小出裕章(京都大学原子炉実験所)
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/…/semi…/No111/Koide20150227.pdf
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