父は腎臓病を患い、ピンピンと健康では無かったが、通院しながら勤務していた。
寝付くことも無かったが、突然逝ってしまったので、言ってみれば「病み病みコロリ」ということになるだろうか。
高血圧から腎臓が萎縮し、人工透析を週に3度。透析には毎回4時間かかっていた。
肥満体であった父の心臓にはかなり負担がかかっていたらしく、ボロボロの状態であるという事。いつ心臓が止まってもおかしく無い状態である事を、担当の医師から聞かされていた。私が20歳ぐらいの頃だったと思う。
父は短気だった上に、私の言動が父をよく怒らせた。父が私に“カミナリ”を落とすたび、父の心臓はドキドキと激しい拍動に疲弊していったかも知れない。責任を感じる。
医師にそんな宣告を受けた後も、父の心臓は良く持ちこたえていた。
体に良くないのにタバコを吸い続けていたのがアダとなった。
朝食後に吸った一本のタバコが引き金となって、父は一服した途端あっいう間に他界した。
死因は心筋梗塞だった。
ニコチンは血管を収縮させる。収縮した血管に血液の塊が詰まったのか…。
弔問客は、お悔やみの挨拶のあとの雑談の中で、父が苦しむこと無く一瞬で逝った事を、「羨ましい」「私もあやかりたい」と口々に言った。
生前父は腎臓が機能しないので、食事の際の塩分の摂取量に厳しい制限があった。さらにカリウムを含んだ食べ物にも制限があり、自由に好きな物を食べられなかった。酒好きで美食家の父にとっては非常に辛く苦しい事だったと思う。
母はその日の献立の、様々な食材の塩分や栄養素の数値の計算をしていた。母にとっても大変な毎日であったと思う。
父は53歳の誕生日を迎えて、1ヶ月ほどで逝ってしまった。
私は父の年齢より、もう既に10年以上も上回ってしまった。
健康面においては、父は私の反面教師だった。
父の高血圧と肥満はすでに30代から始まっていた。
血圧降下剤を病院からもらっていたが、ちゃんと飲んでいたかどうかは怪しい。
思い出すと、薬はB5サイズくらいのお菓子のカンカンにびっちり入っていたのを覚えている。時折私はその缶の中の薬を、父が飲みやすい様に薬のシートを切り分けたりしていた。
30代の父は高血圧症をあなどっていたのだろう。今で言う生活習慣病患者だったのに、改善する努力を怠った当然の結果と言ってしまえばそれまでだ。
そんな父を間近に見ていた私は、“肥満は身体に悪い”と刷り込まれている。
父の家系はポッチャリさんだ。
私も食べたら食べただけ身になるタイプ。だから、食事はバランス良く腹八分目を心がけている。
しかし、客観的に見ても私の見かけはポッチャリとはしていない。メタボでもない。それなのに、我が家の体重計で体脂肪を測るといつも33%前後なのである。
体重計の故障ではないかと娘に測ってもらったが、娘は20%台と表示されたので、故障ではなさそうだ。
体脂肪率27%を超えると肥満らしいから、それで言うと、私は肥満体ということになる。恐らく皮下脂肪より内臓脂肪が付いているのだろうな。
健康診断結果でもコレステロール値は基準をちょっとオーバーしている。揚げ物や脂肪分は取っていないのに。これが家系の遺伝的体質なのだろうか。
正月早々こんな話をするのも、父の命日が1月13日だからだ。父が他界したその日は13日の金曜日で暦注は三隣亡。暦の上でもあまり良い日では無かった。
それなのに、その日の朝は寝起きの悪いはずの私がすんなり起床できて、お弁当も二人分手際よく作れた。
「何て良い一日の始まりなんだ」と思いながら、出来栄えの良いお弁当を眺めていたら、黒電話が鳴ったのだ。母からだった。まさに青天の霹靂。
しかし、医師から、「いつ心臓が止まってもおかしく無い」と聞いた日から、母も私も随分前にその日が来るのは覚悟が出来ていた。
ただ、父の反対を押し切って家を出たのが父の死の前年のことで、まさか1年も経たない内にこんな事になろうとは予想もしていなかった。
父と和解できなかったこと。父にとって二人の孫、子ども達に会わせることが出来なかったこと。それが無念だ。
父の訃報を母が父の職場に伝えた。
職場の同僚はどうしても信じる事が出来なかったのだろう。第一声が
「えーっ?昨日も元気に汁粉を2杯も食べていましたよ」だったと母が私に言った。
とても悲しい日だったけれど、食いしん坊の父らしいエピソードだと、心の中でちょっとだけ笑えた。