活気のある街に出てきて、私は少しウキウキとした気分で地下に広がる歩行空間を歩いていた。
地下の両サイドでは、色々な催し物が並んでいた。
「只今抽選をしています」という声が聞こえ、そちら側を見ると、ある大手携帯電話会社のキャンペーンらしかった。
もし、声につられてクジでも引いたなら、何かをもらえるかもしれないけれど、携帯電話についてのセールスが始まるはずだ、と心の中で思いながら通り過ぎた。
映画を観ようと映画館の方へ向かいながら、何を観ようかボンヤリ周囲を見ながら歩いていると、大きな看板が目に入った。
「アンケートにお答えいただくとプレゼント」
普通なら素通りするところなのだが、看板にあるそのプレゼントの大きな写真は、有名なラーメン店のカップ麺だった。
そのラーメン店は30年前にはもうすでに有名で、夫と一緒に長い行列に並んだことがあった。その時は結局待ち時間に耐えきれず、諦めて行列から離れたのだった。
後に私だけが小さな息子を連れて、一度食べに行ったことがある。
今では、そのラーメン店に行こうと思えば何時でも行けるのだが、まだ夫は一度も行ったことがない。
インスタントでも一個もらって帰って、夫に食べさせられたらなあ、と心が動き、引き寄せられるようにフラフラと、囲われたアンケートブースへと入って行ったのだった。
その直前まで、食品メーカーのアンケートだと思って疑いもしなかった。
アンケートを書くための席に案内してくれたのは、30代前後の、ほんの少しだけ俳優の妻夫木君に似た男性だった。
出されたアンケート用紙を見て、初めてそこが大手携帯電話会社であることに気づいた。私の携帯はこの会社の契約でもある。
内心、まんまとやられたなと思うと同時に、分かっていたはずでしょうがと自らツッコミを入れたのだった。
しかし、もう席についてしまったし、ラーメンさえもらって帰れればと、用紙に記入し始めた。
住所、氏名、電話番号を記入すると、男性は
「あっ、アンケートの答えはこちらで記入しますね」
と言って用紙を回収した。
いくつかの質問から私が利用者であることを知ったその人は、アイパッドで私の契約内容を見ながら、機種変更の丁度よいタイミングであることを強調した。
さらにメモ用紙を使って説明した。横線を引き、等間隔に区切り、
「現在機種代が毎月1,500円かかっていますけど」と言いながら1,500という数字を書き
「今機種変更すると、これまでの1,500円は払わなくて良いんですよ。」と言って、1,500にバツ印を付けた。更にその下に同じような長い横線と縦線の区切りをつけて、600と書き
「新機種で月々機種代金600円ですよ」と言った。そして、現在テレビCMが流れている有名ブランドの最新機種を取り出して、私に提示した。
私の心は大きく動いた。
携帯電話の料金が月々900円安くなるという言葉に、もう既に食いついていた。
最新機種もいいなと思った。
現在持っている私の機種は中国製で、最近充電のたびに熱を持ち始め、気になっていた。これは良い機会かも知れないと、すっかり機種変更の話の流れに乗ってしまった。
いざ実際の契約の話になると、
「セキュリティーは絶対付けたほうがいいですよ。着信しただけで、ウイルスが入って大変になることが最近あるんですよ」と言った。そんな強力なウイルスに感染しては困ると思い、900円近いセキュリティーを加えた。
見積書の月々の代金は合計で6,000円を超えた。これはちょっとなあと漏らすと、
「契約後に格安プランに切り替えるとこうなります」
と新たなる見積もりをアイパッドで提示した。
見てみると、現在の携帯電話の請求金額より、わずかに200円ほど高くはなるが、機種も新しく性能も良いわけだからいいか、と腹を括った。
契約する段になって、近くの携帯電話会社へ移動することになったが、その人は私に例の粗品を渡し忘れていた。それで、「あのー」と私が申し出ると、忘れていたお詫びにと2個カップ麺をくれたのだった。
若い女性社員に契約場所へいざなわれ、カウンターに座り、更に新たなる中堅の女性社員にバトンタッチされた。
「では、ご確認いただきます」と言って紙にプリントアウトされた見積書の機種代金を見てみると、2,700円を超えていた。そこで初めて、「あれっ?600円って話は?」と思ったのだ。
そもそもこの契約に乗ったのは、新機種の代金が600円になるという話からだった。
それで、担当の女性にその話をすると、私ではわからないので、ということで先程の男性が呼ばれた。
その男性に、先程説明された機種代金の話をすると
「そんな話はひとっ言も言ってませんよ」
と少し怒り気味に言い出した。
私は、最初の段階で紙に記載して見せられた機種代金1,500円と600円の話をした。
すると、保険か何かの話だと思うと言い、そんな話はしていないと繰り返す。
「それに、あなたの機種代金は現在1,300円で、100円くらいは安くなると思う、とは言ったかも知れないですけど」と言った。
そんな話は彼の口からは全く聞いていなかったので、驚いたが、念の為再度、メモ用紙に金額を書いて提示した話をした。すると
「じゃあ、そのメモ用紙はまだあると思うから、行って見てみますか?」とやはり喧嘩腰のような感じで言った。
私は、一瞬考えた。
一緒に行ってメモ用紙を確認したところで、この男の人は、私の主張を認めることはないだろうと予想された。
この契約はしないつもりだし、だとすれば面倒は避けよう。私の聞き違い、勘違いで済ませた方が、事は簡単に済むと判断した。
事実ではないが、話を丸く終わらせるため、「私の勘違い、聞き違いだと思います。お手間を取らせてすみませんでした」と、不本意ながら誤った。
一応、カップ麺も返そうと申し出たが、それはいいというので持ち帰った。
しばらく気分がモヤモヤとした。
子供の頃から父に「嘘を付くことは良くないことだ」「嘘つきは泥棒の始まり」と教えられてきた。教えどおりにしていたら、今度は父から
「正直な事は良いことだ。だが、お前の場合は正直の上にバカが付く」と再三言われた。
「バカ正直」私はそれでいいと思っている。
しかし、今回の件で私も結局、最後の最後に、穏便にこの話を終わらせるために“嘘”をついた。
父は私に嘘は絶対にいけない事だと教えながら、一方で「嘘も方便」という事も教えてくれていた。
粗品でお客を釣る。それは企業の戦略として正当なものだと思う。できれば、どこの会社で展開しているのか、明確に表示されていれば、更に良かったと思う。
ただ、根拠のない嘘の説明で人の気を引くのは良くない。
まんまと術中にハマってしまったが、そこが許せないところだったし、納得できないところだった。
もし、あのまま契約を進めてたとしても、携帯料金は若干高くなるかも知れないけれど、真新しい高機能の携帯を獲得できた。それはそれで悪いことでは無かったかもしれない。でも、やはり嘘から始まったことだ。始まりが納得できない。
しばらくモヤモヤと心が晴れず、娘を含め二人の人にこの話をして少し落ち着いた。
娘には夜遅く、時間をかけて詳細を話したので、仕事で疲れていたのに、長話で迷惑をかけて申し訳なかった。
うまい話の後味は限りなくまずかった。
今日のお昼、夫と二人でくだんのカップ麺を食べた。
お店で買うと、普通のカップ麺の価格の2倍ほどする代物だ。熱湯を入れて5分。
有名店の味噌味のラーメンは、とても美味しかった。夫も喜んでくれた。本来の目的は果たされたのだ。
終わりよければ全て良し。
ごちそうさまでした。