M本先生は、ワイシャツの袖口には自慢のカフスボタンを付けてくるようなオシャレな人で、当時美しい男性の代名詞であったフランスの俳優、アラン・ドロンの美しい仕草の話をしていた。また、「僕のワイフは…」と、愛妻の話をよくするキザな人だった。
悪意なく、正直にM本先生の風貌を描写するなら、頭はバーコード、三角眉に小さな目、頬骨が高く、口をとがらせて話すところは、タコを連想させる普通のおじさんだった。
その日は英語の授業参観の日だった。
M本先生は教科書を使わずに、ランダムに生徒へ英語で質問をした。
質問はもちろん中学生レベルの、
“Do you know 〇〇?”
といった平易なものだった。
私が座る席の先頭から、“Do you know 〇〇?”の簡単な質問が始まった。他の生徒への質問と答えを聞きながら、「よし、簡単な質問だ」「さあ、かかってこい!」と、万一の質問に構えていた。
案の定、私に質問がなされた。
”Do you know …“
その後に何が来るか緊張しながら聞いていると、
「ドゥー ユー ノウ ビーターバン?」ときた。
ディズニーのピーターパンなら知っている。でも、「ビーターバン」なんて聞いたこともない。教科書にも出て来ない。
私は正直に“No,I don't.”と答えた。
すると、周囲からクスクスと笑い声が起こった。
えーっ?みんなは知ってるの?とドギマギした。
先生は、私に顔を近づけ、下唇を噛んで「ビーターヴァン」と”ヴァン“を強調して発音した。
それでも知らないものは知らない。
私が困惑しているのを見て先生は諦めて、私の後ろの生徒に同じ質問をした。
背後から”Yes I do.“と、誇らしげな声が聞こえた。
ホントに知っとるんかいなと思った直後に、ビーターヴァンは音楽家のベートーベンであることが分かった。
小学校2年生か3年生の時に、父が買ってくれたベートーベンの伝記も読んでいたのに、ビーターヴァンの意味がわからず「イエス アイ ドゥ」と答えられなかった。
参観日という、日頃の学習の成果を親に見せる場で恥をかき、苦い思い出として今も記憶に残っている。
念の為、GoogleでベートーベンBeethovenのネイティブの発音を聞いてみた。すると、ビーターヴァンではなかった。
発音記号は[béitouvən]
強いて文字にするなら「ベイトウヴァン」じゃないですか。
授業中、「学生だった頃、英単語を覚える時は辞書を丸暗記して、そのページを食べた」と豪語していたM本先生。
「弘法も筆の誤り」「猿も木から落ちる」
あの時、正しい発音をしてくれていたら、
“Yes I do.”と言えたのに…。
50年以上の時を経て真実を知り、今は亡き先生に、ちょっとイラッとした瞬間だった。