例えば経済的にも心も豊かな家庭環境であったなら、食卓や食後の団らんの際に、様々な話題がもたらされ、社会問題などで議論したり、あるいは些細な出来事で盛り上がったりして、コミュニケーション能力も発達していくのでは無いだろうか。
私の子供の頃の家庭の場合、昭和一桁生まれの父によって、私のコミュニケーション能力があまり発達しなかったんじゃないかと思う。いや、そもそも昭和30年代の日本の家庭の食卓では、黙って食事をするのがマナーだった。
令和のコロナ感染症が流行った時に必須であった「黙食」が、昭和時代の食卓で、目的こそ違ったが、既に実施されていた。
私は食卓でいつもおしゃべりしてしまうので、父に「黙って食え!」といつも一喝されていた。
ただでさえ食べることが遅い子供が、喋りだすとどうしても箸がおろそかになるのだから、そう言われるのはむべなるかな。
しかし、それだけでは無い。例えばお出かけの時、どこに行くのか父に聞くと、「黙ってついて来い」と一言。
私が帰宅時刻に少し遅れて、その理由を言おうとすると、「つべこべ言うな」と怒鳴られ、私が“だはんこく”(方言 ぐずる)と、父はゲンコツ一発で黙らせるのだった。
こんな風に昭和の頑固親父は、私に話をさせる機会を与えなかった。
父は無口な男だった。昔流行った三船敏郎のCMのフレーズさながらに、「男は黙って…」が男の美学だと思っていたのだろう。このCMが流行ること自体、当時のオジサンたちは「黙る事こそが男の鑑」とばかりに、黙ってサッポロビールを飲んでたのかも知れない。
こうして会話を楽しむ習慣のない家庭で育った私は、コミュニケーション能力が未熟なまま成長した。
自分の会話力の低さに、初めて気付いたのは中学生になってからだった。
何かの折に、クラスメートの家に集まって、皆のやり取りする会話を聞いていて、大人だなあと感じたのだった。自分の幼さを痛感した日であった。
私の思い込みかも知れないが、コミュニケーションを取らなかった分、別な部分が発達したような気もしている。
特殊能力と言うのじゃないけれど、その場の空気は読めない私だが、初対面の人間と対面した時に、会話をする前からその人の「何か」を感じとる力だ。第一印象と言うのとは少し違う、その「何か」は言ってみれば、その人が漂わせている「気配」の様なもの。言葉が話せない動物が感じ取る、野生の感覚に似ている様に思う。
この感覚は、相手が心を許せる人か、そうでない人かの判断を私に伝える。こんな感覚を持っているのは、私だけではないかも知れないけれど、この判断は大体間違いが無い。
コミュニケーション能力の低かった私は、小学1年生か2年生の頃、クラスメートと口論になると、言葉に詰まってカッとなり、よく手を上げる事があった。
20代の頃に読んだ三田誠広さんの本だったと思うが、こんな事が書いてあった。
言葉で言いたいことを表現できる子は言葉で訴えるが、言葉で表現できない子は暴力で訴えると。
私はそれを読んでハッとした。それは正に自分の事だったからだ。
今振り返ってみると、母親になって子供を育てた事が、私のコミュニケーション能力の新たな学びの場であったのかも知れない。
子供には日常多くの事を説明するために、随分色々な事を話さなければならなかったし、子ども達ともよく会話した。子ども達がいるおかげで、コミュニケーション能力が随分鍛えられたと思う。とはいえ、やっと並になった程度のものだが。会話の中に気の利いたユーモアなど入れる余裕など到底ない。
私はこんな風に子ども達によって会話力を向上させていたが、夫は出張でほとんど家にいなかったこともあり、彼が会話力を学び直す機会も無かった。
口下手夫婦の私達は会話もなかなか弾まない。理想はワインを傾けながら、ゆったり会話を楽しむことなんだけどなあ。
最近TIKTOKの画像を見ていたら、2~3歳の男の子が、お母さんと会話する様子が流れていた。幼いにも関わらず、大人の様にきちんとした会話をしていて、そのギャップが面白く思わず笑みがこぼれる映像だった。
それを見て思ったのは、やはり家族がより良くコミュニケーションを取れば、子供のコミュニケーション能力も飛躍的に発達するという事だ。
会話はよく“言葉のキャッチボール”と言われる様に本来楽しいものだ。話せば話すほど会話力も向上するだろう。人とコミュニケーションを取ることは、年を取れば取るほど必要な事だと、アンチエイジングの記事には必ず載っている。
楽しく語り合う機会が、これからも多くあるといいなあと思う。その為の努力を怠らないようにしよう。