阪神淡路大震災から10年が経ちました。もう10年と感じるかまだ10年と感じるかは人それぞれではないでしょうか。
昨日、1.17の5:46から全日本仏教青年会主催の震災慰霊法要、行脚に参加させていただきました。
前夜からいつも以上にマスコミ各社はこの1.17のニュースを大きく取り上げているように感じました。震災後の家屋等の瓦礫の山、崩れた家屋から助けだされる人々の様子、長田区の火災等当時の生々しい様子が幾度となく写し出されます。この未曾有の震災で6000人以上の尊い生命が一瞬にして奪われたこと、数ヶ月に及ぶ避難所暮らしを余儀なくされた方がいることなど当時のことを風化させず次代に伝えていくこと、又この震災を教訓にして備えていくことは必要なこととは思いますがいつもこの時期になると季節の風物誌のように、映画のワンシーンのように何度も写しだされるあの当時の映像を見ると複雑な心境になります。
非常に極端な言い方になりますがつらいことや悲しいことは「忘れましょう」とするのが仏教的な物事の捉え方だといわれています。そしてつらい時、苦しい時は何度でも立ち止まりながらも「それでも生きてこう。」とするのが仏教徒としての歩み方だと思います。もちろんあの震災で家族を亡くされた方はあの出来事を一生忘れることは出来ないと思いますし、ご遺族の気持ちを思うと(私の身近な所でも亡くなった方がおられます。)いたたまれませんが、ある一定の期間を費やしながら受け入れていくことは人間には必要な部分であるように思います。そして本当につらいことを乗り越えて生きていこうとすれば本当につらいことは一日も早く忘れていくより仕方がないように思われます。しかしそう簡単にいかないのが現実でしょうか。いずれにせよこの時期になると何度も写し出される当時の映像を見ると複雑な心境になります。
法事等の追善供養はいつまでも忘れないでおきましょうという儀式だと思いますが亡くなった家族の闘病中などのつらく悲惨なことまでをいつまでも思いつづける必要は無いように思います。そして、おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さんの存在、素敵ないい思い出はおのずと心の奥底にいつまでも留まるものだと思います。
合掌
昨日、1.17の5:46から全日本仏教青年会主催の震災慰霊法要、行脚に参加させていただきました。
前夜からいつも以上にマスコミ各社はこの1.17のニュースを大きく取り上げているように感じました。震災後の家屋等の瓦礫の山、崩れた家屋から助けだされる人々の様子、長田区の火災等当時の生々しい様子が幾度となく写し出されます。この未曾有の震災で6000人以上の尊い生命が一瞬にして奪われたこと、数ヶ月に及ぶ避難所暮らしを余儀なくされた方がいることなど当時のことを風化させず次代に伝えていくこと、又この震災を教訓にして備えていくことは必要なこととは思いますがいつもこの時期になると季節の風物誌のように、映画のワンシーンのように何度も写しだされるあの当時の映像を見ると複雑な心境になります。
非常に極端な言い方になりますがつらいことや悲しいことは「忘れましょう」とするのが仏教的な物事の捉え方だといわれています。そしてつらい時、苦しい時は何度でも立ち止まりながらも「それでも生きてこう。」とするのが仏教徒としての歩み方だと思います。もちろんあの震災で家族を亡くされた方はあの出来事を一生忘れることは出来ないと思いますし、ご遺族の気持ちを思うと(私の身近な所でも亡くなった方がおられます。)いたたまれませんが、ある一定の期間を費やしながら受け入れていくことは人間には必要な部分であるように思います。そして本当につらいことを乗り越えて生きていこうとすれば本当につらいことは一日も早く忘れていくより仕方がないように思われます。しかしそう簡単にいかないのが現実でしょうか。いずれにせよこの時期になると何度も写し出される当時の映像を見ると複雑な心境になります。
法事等の追善供養はいつまでも忘れないでおきましょうという儀式だと思いますが亡くなった家族の闘病中などのつらく悲惨なことまでをいつまでも思いつづける必要は無いように思います。そして、おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さんの存在、素敵ないい思い出はおのずと心の奥底にいつまでも留まるものだと思います。
合掌