4月16日(日) 昨日までは肌寒い日々でしたが、今日は春暖。のんびりした気持ちです。
庶野という地区にお参りに行った帰り、N牧場を眺めると、黒い牛さんの大集団が。
思わず車を降りていくと、一斉にこちらを凝視(みつ)めています。
シャッターを切り、更に近くによると~ 一斉に逃げ出しました。少し間をおき、カメラをおろして再び近づくと~
また、こちらに寄ってくるではありませんか!何とも不可思議な行動です。
牛を眺めている内に、昨夜読んだ『徒然草(第九十三段)』の一節を、想いだしました。
<ある人が大勢の前でこんな話をし出した。
「牛を売るものがいて、買い手と話がつき、明日代金を支払って引き取ってもらう約束をした。
ところがその夜のうちに牛が死んでしまった。牛を買おうとしたものは得をしたが、売ろうとしたものは損をした」
これを聞いて、側にいた人がこう言った。
「牛の持ち主は確かに損をしたが、しかし又、大きな利益もある。
生命(いのち)あるものが死の迫っていることを知らずにいるのは、牛もまた人間も同様である。
思いがけず牛は死んでしまったが、持ち主は存命だ。人の生命は万金よりも重く、牛の代金などは羽毛より軽い。
僅かな金を失ったひとが、損をしたとは言えない」
しかし、その場の人々はみな嘲り顔で「その道理は何もその牛の持ち主に限ったことではない」と冷ややかだ。
その人はかまわず、
「人間が本当に死を憎むなら、生をこそ愛すべきだ。今ここに生きている喜びを忘れ、わざわざ苦労して、外の楽しみを求める。
(中略)生命ある間、生を楽しまないで、急に死を恐れるというのでは、これ程矛盾した道理はない。
人がみな生を楽しまないのは、死を恐れないからだ。死がまじかに迫っていることを忘れているのだ。」と説くが、人々は理解しない。
「いよいよ嘲る」として、この段は終わっています。>
この側にいた人というのは、吉田兼好自身ではないでしょうか?
目先の慾にとらわれて、大切な生命(いのち)の価値を顧みようとしない庶民。兼好の批判精神が感じられます。
しかし、翻って「自分の生き方はどうか」と 自身に問うてみます。甚だ覚束ない部分もあります。
布教の場では『生死事大 無常迅速』と繰り返している拙僧ですが~
「日々の生活で、生命の重みをどの程度感じているのか?」と、あらためて突き付けられた思いです。
大勢の牛さんたちの瞳は、そのように私に、問うているようにも見えたのです!