敢えてカタカナを使ったのは、子供時代の死語だかです。
コロナの時代を迎えて季節を感じない、十月を迎えれば柿の季節だが異常気候を含めて秋を肌で味わえないのは悲しい。俺は好きな季節を問われれば秋と答えるだろう、夏の暑さが去り蝉の声も五月蠅いアブラ蝉からヒグラシに代わる、夕刻に鳴く者悲しいカナカナカナの声が好きだ。トンボも山を下り赤トンボに代わる、そして静かに紅葉の季節に移る。
暑さ寒さも彼岸までと言うが、春より秋の方が人生の無常を感じ好きだ。
本題に入ります、ドロボウと言えば立派な犯罪で、現在では組織的な果物泥棒が増えて来たが、昔はスイカや柿ドロボウは居たが苺泥棒の記憶は無い。
食糧難時代故にて餓鬼のおやつ否エサだったのだ。ドロボウにてもルールと縄張りが有った、本来柿は甘柿より渋柿が高級品だが当時の空腹を満たすのが目的で甘く成る迄は待てない、何処の家が甘柿か調査済みなのだ。当然見つかれば怒鳴られ怒られるが、見逃してくれる家も有った。人間的に余裕が有ったのだろう。御菓子類等一切無く空腹の餓鬼で溢れていた笑話の昔話でした。
時は移り柿木を余り見ない、各家に駐車場が増え庭が無くなったのが原因だし、色々な果物が増え柿の人気が落ちたのだろう、尤も柿ドロボウのお坊ちゃまも死滅したろう。言葉は時代に連れて変わる、死語を調べるのも時代背景が覗け面白い。
自然が減り雀や燕を余り見ない、夕方燕が地表近くを飛んだのは風情が有ったし燕の巣は縁起の良いと言われたが、今は空き巣で泥棒だろう税金泥棒も増えたし、国泥棒の麻薬で大儲けした悪人も居たが、植民地解放の屁理屈がまかり通る落ちた国が本日の落です。