初めての文学講座 第3回 富岡周辺街歩き
横濱金澤シティガイド協会資料より引用
http://yokokanaguide.org/
一部横浜金沢観光協会HPより引用
https://yokohama-kanazawakanko.com/
富岡駅の歴史
現在の京浜急行電鉄の前身、昭和5年 (1930)4月 黄金町~浦賀、
金沢八景~湘南逗子間で開通、当初、7月 に海水浴客用仮駅として開業
初代「湘南富岡」として昭和6年、現在地に開業→昭和20年空襲被害→昭和22年廃止
二代目「湘南富岡」昭和22年、鳥見塚付近で開業→昭和30年廃止(移転)
三代目「湘南富岡」昭和30年、現在地に開業→昭和38年「京浜富岡」→昭和62年「東急富岡」
富岡トンネルの悲劇
昭和20年6月10日、米軍による富岡への空襲があり、湘南富岡駅周辺に目標から大きく外れた
爆弾が落下、民家多数が吹き飛ばされ、富岡駅に停車した、上り下りの2本の電車の乗客をはじめ
多くの人々がトンネル内に避難したが、入口と出口に落とされた爆弾により、多数の犠牲者が出た。
米軍の目標は、横浜海軍航空隊(現第一機動隊周辺)大 日本兵器 (現イトーヨーカドー周辺)など
旧川合玉堂別邸園庭 (二松庵 )
日本画家、川合玉堂が大正6年~9年ごろに建てた別荘・画室で、大きな二本の松の本があつたので
「二松庵」と名づけ、主に夏、冬をここで過ごし、富岡の風景や人々の暮らしを題材とした多くの
名作を描いています(紅 白梅、長閑、紀元節など)
平成17年に、横浜市が取得、主屋、腕木門が横浜市指定有形文化財に指定されました。
平成25年10月 主屋火災により消失→名勝指定に変更
直木三十五文学碑
「芸術は短く、貧乏はながし」字体は直木の遺構から 署名も真筆
昭和35年 大仏次郎の呼びかけで、横浜ペンクラブが中心となって建てられました。
直木二十五邸跡
富岡の地を愛し、昭和8年慶珊寺の裏山に建坪48坪の家を直木本人の設計で建てました。
建物の外壁は黒、洗面所、風呂場のタイル、浴槽もすべてが自と黒、玄関は畳一枚位の入リロ。
窓ガラスはドイツ製の二重ガラスと鉄製サッシ、トイレは水洗だが、電気が定額電灯のため杉田から
電気を引くことになつた。 全体の費用は、約1万3千円 書斎、茶の間、子供部屋、女中部屋
佐藤得二墓所
明治 32年岩手県生、盛岡中学を経て大正 13年東京帝大哲学科卒業 昭和 2年に
朝鮮水原高校・京城帝大教授を歴任。帰京後文部省に入 り、終戦時に文部大臣副1令 を
執筆、我が国の教学の再建に寄与した。戦後は結核を発病し、貧困にも苦しむが
昭和 38年、親類の女性の経験談を元にした初の小説 「女のいくさ」を刊行、
64歳 とい う高齢で直木賞を受賞しました。
平成 10年 に亡くなった妻 「コン」が慶珊寺の住職の奥さんと幼剛1染の親友で、無宗教
とい うことから、納骨の際にご供養のお経をあげた (当 時の住職談)
慶珊寺 「米軍富岡空襲の犠牲者供養塔」
真言宗御室派 開山、伝栄 開基 豊島明重 寛永1年 (1624年)本 尊 大 日如来
山号は、父の法名から 花翁山 寺号は母の法名から 慶珊寺
豊島明重・16歳で家康から富岡の地を与えられる→江戸城内、刃傷事件で断絶する。
寛永5年 (1628年 )日 付豊島明重(49歳 )が 、老中井上正就(ま さなり)を刺殺
Wondershare Filmoraで作成
\ 計2品モニター!/2022年3月リニューアルした商品(かつお粉)を含む2品をお試しいただき感想を伺います!
横濱金澤シティガイド協会資料より引用
http://yokokanaguide.org/
一部横浜金沢観光協会HPより引用
https://yokohama-kanazawakanko.com/
富岡駅の歴史
現在の京浜急行電鉄の前身、昭和5年 (1930)4月 黄金町~浦賀、
金沢八景~湘南逗子間で開通、当初、7月 に海水浴客用仮駅として開業
初代「湘南富岡」として昭和6年、現在地に開業→昭和20年空襲被害→昭和22年廃止
二代目「湘南富岡」昭和22年、鳥見塚付近で開業→昭和30年廃止(移転)
三代目「湘南富岡」昭和30年、現在地に開業→昭和38年「京浜富岡」→昭和62年「東急富岡」
富岡トンネルの悲劇
昭和20年6月10日、米軍による富岡への空襲があり、湘南富岡駅周辺に目標から大きく外れた
爆弾が落下、民家多数が吹き飛ばされ、富岡駅に停車した、上り下りの2本の電車の乗客をはじめ
多くの人々がトンネル内に避難したが、入口と出口に落とされた爆弾により、多数の犠牲者が出た。
米軍の目標は、横浜海軍航空隊(現第一機動隊周辺)大 日本兵器 (現イトーヨーカドー周辺)など
旧川合玉堂別邸園庭 (二松庵 )
日本画家、川合玉堂が大正6年~9年ごろに建てた別荘・画室で、大きな二本の松の本があつたので
「二松庵」と名づけ、主に夏、冬をここで過ごし、富岡の風景や人々の暮らしを題材とした多くの
名作を描いています(紅 白梅、長閑、紀元節など)
平成17年に、横浜市が取得、主屋、腕木門が横浜市指定有形文化財に指定されました。
平成25年10月 主屋火災により消失→名勝指定に変更
直木三十五文学碑
「芸術は短く、貧乏はながし」字体は直木の遺構から 署名も真筆
昭和35年 大仏次郎の呼びかけで、横浜ペンクラブが中心となって建てられました。
直木二十五邸跡
富岡の地を愛し、昭和8年慶珊寺の裏山に建坪48坪の家を直木本人の設計で建てました。
建物の外壁は黒、洗面所、風呂場のタイル、浴槽もすべてが自と黒、玄関は畳一枚位の入リロ。
窓ガラスはドイツ製の二重ガラスと鉄製サッシ、トイレは水洗だが、電気が定額電灯のため杉田から
電気を引くことになつた。 全体の費用は、約1万3千円 書斎、茶の間、子供部屋、女中部屋
佐藤得二墓所
明治 32年岩手県生、盛岡中学を経て大正 13年東京帝大哲学科卒業 昭和 2年に
朝鮮水原高校・京城帝大教授を歴任。帰京後文部省に入 り、終戦時に文部大臣副1令 を
執筆、我が国の教学の再建に寄与した。戦後は結核を発病し、貧困にも苦しむが
昭和 38年、親類の女性の経験談を元にした初の小説 「女のいくさ」を刊行、
64歳 とい う高齢で直木賞を受賞しました。
平成 10年 に亡くなった妻 「コン」が慶珊寺の住職の奥さんと幼剛1染の親友で、無宗教
とい うことから、納骨の際にご供養のお経をあげた (当 時の住職談)
慶珊寺 「米軍富岡空襲の犠牲者供養塔」
真言宗御室派 開山、伝栄 開基 豊島明重 寛永1年 (1624年)本 尊 大 日如来
山号は、父の法名から 花翁山 寺号は母の法名から 慶珊寺
豊島明重・16歳で家康から富岡の地を与えられる→江戸城内、刃傷事件で断絶する。
寛永5年 (1628年 )日 付豊島明重(49歳 )が 、老中井上正就(ま さなり)を刺殺
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