郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 三森城跡

2020-01-06 10:07:56 | 城跡巡り
【閲覧数】1,283件(2016.10.13~2019.10.31)



▲三森城全景


▲三森城位置図 (昭和23年航空写真 国土交通省)




播磨の城跡「三森城」    宍粟郡安富町三森(現姫路市安富町)

交通の要衝に位置する中世初期の山城


 三森城跡は宍粟郡の南東部(姫路市安富町)にあって東へは加西北条方面の古道、南へは安志川(林田川)沿いに姫路・竜野に至る街道があり、古くからの交通の要衝地点にあった。三森字城山の標高250m・比高130mの山頂部に小さな曲輪跡と数段の削平跡が見られるが、自然地形に近い。戦国末期に見られる竪堀や堀切の跡がないため、中世初期の小規模な山城であるといえる。西側の安志川(林田川)に接した安志姫神社の宮山稜線部からの眺望はよく、安志坂上部や安志川流域が一望でき、城山と連携した見張り台によって、南麓の街道筋を押さえ、かつ安志庄内の動きを監視していたものと見られる。さらに三森城は狼煙(のろし)により長水城と連絡していたのではないか言われている。頂上から尾根筋に少しばかり下ると狭い鞍部になった所に至る。そこに狼煙台があったという。今はその場所は送電線の鉄塔工事のため改変されている。三森から三坂(下河)そして三谷越しの切り通し北尾根に狼煙台が想定されているが、本当に狼煙台があったのかどうか、有事の際に狼煙が有効に使われたのか、その確証はない。


▲頂上曲輪跡                 




▲鉄塔のある鞍部 狼煙台があったという

▲鉄塔付近からの西の展望



城主は三森近江守(伝承)

 三森城の城主については、「赤松家播備作城記」には記載がなく、ただ一つ宝暦5年(1755)の「播磨古跡考」佐用の岡田光僴)に「三森古城 安志庄三森村に有り。三森近江守と云し人住之と云」とあるのが初見である。しかし三森近江守の名は赤松家臣団に見当たらない。この「播磨古跡考」が書かれたのは長水城が落城して175年後のことである。三森氏の存在を裏付ける手掛かりはない。


大手道に長い石垣を残す居館跡


 三森城跡について、特筆すべきは城山の西南の高台で大手道あたる場所(字坂口)に武士の居館跡の石垣が残っていることである。竹藪の中には野面積の石垣に区分けされた幅5m~10m、長さ20m~40mの屋敷跡が五段に及ぶ。
 中世の時代は、山城の中腹や山麓に「根小屋」と呼ばれた居館があり、いざ合戦ともなれば相手の軍勢によって少数であれば野戦を選び、多数の場合は山城に立て籠もり応戦していたようである。



▲大手道(登城口)




▲山麓の竹林に東西にかけて段階状に曲輪跡が残る    




赤松家の弱体化と宇野氏の離反

 天文7年(1538)に出雲の尼子氏が播磨に侵攻し、備前・美作・播磨の守護赤松晴政(置塩城主)はその侵攻を食い止めることもできず敗走し、播磨は大混乱に陥った。尼子氏が本国で毛利氏との闘いに敗れ播磨を撤退すると、今度は赤松重臣の浦上氏が台頭し、赤松を牛耳る動きに出た。こうして16世紀半ば以降赤松家の勢力は一武将ほどに低下していった。

 天正5年(1575)織田信長の命により羽柴秀吉の中国制圧で、置塩城(夢前町置塩)の赤松惣領家最後の当主赤松則房は、秀吉の軍門に下り、播磨攻めに加わった。天正8年4月秀吉の宇野攻めの前哨戦として広瀬(山崎町)に攻め入っている。戦国期末期宇野氏は「織田か毛利か」の決断をする以前に、主家赤松氏から離反し敵対状態であったため、夢前・林田につながる街道筋は常時緊迫した状況であったと考えられる。

 そこで置塩から安志には三坂ルートがあることに注目している。三坂は宍粟郡と飾西郡の郡境に近く、その峠への道に「木戸口」という小字地名が残されている。それはおそらく夢前町護持につながる街道の見張りの門があったのだろう。ゆるい峠を越え下って行くと奥護持の西谷口に至る。そこには赤松置塩城防衛の護持構居跡がある。則房が宇野征伐にこの護持峠越えの最短ルートを利用したことは十分考えられる。




▲置塩・三坂推定ルート



三森の居館跡は中世遺構として貴重なもの


 三森城は宇野氏と主君赤松氏の臣下の関係が良好であるときは不用なものであったが、戦国後期ににわかに宇野氏は配下の者をして三森と三坂を守らしていたと推測される。

 宍粟郡を支配していた宇野氏の本城長水城や篠ノ丸城の山麓には城主の居館跡や菩提寺、政治を行う政庁があったと思われるが、近世の町場化と400年以上の長い年月にほとんどが跡形もなく消失してしまった。その中にあって三森に残された居館跡は宇野氏ゆかりの中世遺構として貴重なものと理解している。



参考:「安富町史」他

※山崎郷土会報 NO.127 28.8.28より転載 (写真追加・カラー化)



◆城郭一覧アドレス

地名由来「福中(田和・来見)」

2020-01-06 09:37:37 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「福中(田和・来見)」  上月町(現佐用町)

【閲覧数】1,539件(2010.10.25~2019.120.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地) 




■田和(たわ)
 佐用川支流幕山川中流の北、大撫山の西、山間の谷間に立地する。狭い谷川と道の両側の山裾には石垣の棚田が重なる。地名は田和が峠であることから、峠の下の集落ということによるか。
 元文4年(1739)の旗本松井氏平福領一揆の際、当村も天狗回状に連判し、参加している。
弘化5年(1848)の福円寺人別帳によれば、当村大乗院は無住につき中山村の福円寺が兼帯すると寺社奉行に届け出ている。植木谷村との境の通称たわんどうの上に「いきにんぎょ」と呼ばれる塚が築かれている。時代は不祥だが、大乗院の僧が生きながら穴に入り入寂したと伝えられている。
 明治8年(1875)来見村と合併し福中村となる。



■来見(くるみ)
 佐用川支流幕山川中流の北、大撫山の西。田和村の東、中山村の北に位置し、大撫山の西側の谷窪に集落がある。地名の由来は、来て見ないとわからない山地の集落であることに由来するという。上・下2か所に集落がある。

 寛永17年(1740)平尾村を分村している。享保16年(1731)当村半右衛門、豊福村(旧佐用町)伝右衛門ら5人が領主旗本松井氏への賄銀に難渋して江戸幕府に出訴し、罰せられている。元文4年(1739)の旗本松井氏平福領一揆の際、当村も天狗回状に連判し、先年貸付けられていた闕所銀の利銀返済免除などを要求したが、当村十郎右衛門は田畑・家屋敷を取り上げられている。平福村の光明寺末の正覚庵(現廃寺)は文化14年(1817)に武州入間(いるま)村(埼玉県入間市)出身の庵主伝心が庵を再建し、伝心は天保2年(1831)に死去し当地に葬られた。
 明治8年(1875)田和村と合併し福中村となる。



■福中(ふくなか)、
 西播山地北西部に位置する。明治8年、田和村と来見村が合併して成立。明治22年幕山村の大字となり、昭和30年上月町の大字になる。

 明治30年前後から、農家の副業として畜産・養蚕を導入、冬季の副業に製炭業関連の山林労務に従事するようになり、婦女子はわら芯きりに精励し、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。





◇今回の発見
・前回は蔵垣内村と平尾村が明治8年に合併し、福吉村となり、今回は同年に田和・来見の両村が合併し、福中村ができた。いずれも頭に「福」を付けた。
・来見は慶長国絵図には、「くるミ」とある。来見村の地名の由来は、来て見ないとわからない場所であることからとしているが、ほんとにそうであるなら、なんとも投げやりな地名のついた村名であるが、逆にどんな所なのか行ってみたくはなる。