地名由来「平福」 佐用町(現佐用町)
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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)
■平福(ひらふく)
宗行(むねゆき)村・口長谷(くちながたに)村の北、佐用川上流域に位置する。利神城(りかんじょう)西麓。地名の由来は、平は緩傾斜地で、利神山と西山に囲まれた膨らんだ地形に福の好字を当てたことによる。南北朝期には赤松一族の別所御陵左衛門敦範によって利神城が築かれ、天正年間(1573~92)山中鹿之介に攻められて落城。
近世初期までは未開拓の湿地帯。毎年冬頃田鶴が飛来して冬を過ごしたことから田住(たずみ)村と呼ばれていたが、寛文年間(1661~73)頃に平福村と改称したという。
慶長5年(1600)播磨国主として姫路城に入った池田輝政は、甥である姫路藩家老池田出羽守由之に佐用郡2万2千石を支配させ、由之は、口長谷村殿町の旧別所館を修理して同館に入り、利神城築城、山麓に池田館を築くとともに当地における城下町の普請に着手し、慶長10年(1605)に完成。城下は南から南新町・下町・中町・上町・北新町に区分され、また、ほかに裏町もあったが、のちには城下であったことを示す地名は南新町の鉄砲町のみとなった。利神城は慶長10年(1605)頃藩主池田輝政の命で天守閣が取り壊され、元和元年(1615年)池田輝興が就封して平福藩(姫路藩の支藩)の藩主居城となり輝興が赤穂へ転封となって廃藩となった。利神城跡と武家屋敷跡地は寛永11年(1634)から同16年(1639)に6町7反余が開墾され畑地となった。
旧平福藩領は同年の寛永8年(1631)中に山崎(宍粟)藩領に含まれたが、寛永17年(1640)山崎(宍粟)藩主松井(松平)康映が甥の松井康朗に平福村など15か村5千石を分知し、康映は当村に陣屋を置いた。このため旗本松井康朗家の知行村を平福領とよぶ。この間に利神城が廃城になっていたが、城下町の町場を継承して宿場町となり、当地方の政治・経済・交通の中核地として発展した。以後天保6年(1835)まで平福松井氏の知行が続くが、翌年幕府領となり、文久3年(1863)松井家領に復帰。
この地に住む田住家は戦国期の利神城主別所氏の末裔で、郷土となり池田氏治政時代には佐用郡統治権を付与されていたという。元文4年(1739)の平福領一揆の際、百姓らは2月に平福町会所(美作屋久兵衛方)で集会したのち天狗回状が回された。3月には20か村百姓が当地の大庄屋(地代官)田住家や商家に押しかけ一時は平福町を制圧した。7~8月には鎮圧されて首謀者らが逮捕されたが、平福惣町の月行事12・馬問屋1・北新町組頭6・上町組頭12・中町組頭6・下町組頭6・南新町組頭10・裏町組頭12、計61人から徘徊百姓を見つけしだい捕まえるとの念書をとっている。
鎮守は、素盞鳴(すさのお)神社(三宝荒神宮)で、寛永17年松井健康郎が宮谷荒神・西明神・西山荒神を合祀したもの。ほかに氏神に、北新町の荒神社(稲荷神社)、下町の金刀比羅神社、南新町の天満神社がある。寺院は真言宗光明寺・浄土宗正覚寺・浄土真宗光勝寺・真宗教岸寺・日蓮宗了清寺・浄土宗正覚寺末寺福聚寺(現在廃寺)があり、住職・住民とも、宗派を問うことなく、仏事に参加している。宿場町である当村には代官の下に、3名の大年寄がおり、問屋役人を輪番で勧めた。宿役人には問屋役・年寄・張付・人足指・馬宿・迎番があった。地内には本陣・脇本陣・宿屋12軒があった。元治元年(1864)の五人組帳によれば、家数・五人組数は、北新町38・7、上町41・8、為延5・1、中町40・8、下町38・7、南新町66・8、裏町40・8で年寄9軒ほか4軒とある。すべての家は屋号で呼び、幕末には181軒が79業種の店を出す繁盛ぶりを示していた。
平福村は、明治9年友延村・正吉村と合併、明治14年旧友延・正吉両村を延吉村として分村。明治5年平福郵便局設置。明治6年教岸寺内に小学校設置。同7年南新町西側に移転。明治22年平福村の大字となり、昭和3年平福・延吉・庵の3か村が合併し平福町が成立し、その旧村名を大字として継承した
明治35年北新町・上町・中町・下町・南新町の5区に分け区長を置いた。明治40年平福尋常高等小学校設置。大正8年播備自動車が乗合自動車を運行、停留所を置いた。大正13年佐用郡内真言宗寺院が共同社会事業として、当地に高野山医療院を置く。昭和22年長谷・平福・石井の3か町村組合立利神中学校創設。昭和57年佐用町歴史的環境保存条例が制定され、当地は町並み保存地域に指定された。
▼平福の小字
◇今回の発見
・平福はその昔は田鶴の飛び交う湿潤地であったという。近世には利神城西麓に城下町として栄えた。因幡鳥取藩主の参勤交代路にあった宿場町であった。幕末には79業種の店が立ち並ぶ繁盛ぶりを示していたという。
・宍粟藩が佐用平福領を有した時代があった。寛永8年(1631)から寛永17年(1640)の9年間。
・平福の町が昔の町並みを留めているのは、町並み保存地域に指定されたことと地域住民の保存への熱意が実を結んでいると思われます。
※ 利神城跡 ~三層の天守と遺構の謎~
由之が利神山頂に建てた雲突(くもつき)城との異名のある利神城。それは三層の天守をいただく豪壮な山城であったという。平福藩主を命じた池田輝政は、完成時にその豪壮な城郭を見て仰天し、大御所(徳川家康)に謀反の疑いをかけられてはとの思いにより、天守を破壊し、由之を下津井城(岡山県倉敷市)に移封。のち城主が5代変わり当城は廃城となったという。
しかし、遺構の調査では、石垣には由之時代以外のさまざまな時期のものが含まれること、採集瓦には時期の古いものがあること、池田輝政が築城を援助したとされるなど(奏公書)、通説には疑問点も多いという。
(参考 「兵庫県の地名」1999 利神城跡)
▼平福観光案内(町観光課制作)