地名由来「西新宿・大日山」 上月町(現佐用町)
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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)
■西新宿(にししんじゅく)
上秋里村の南西、秋里川上流域に位置する。同川沿いを播磨から備前へ至る道が通る。西は備前国和気郡東畑村(現岡山県吉永町)、南は赤穂郡黒石村(現上郡町)。ほぼ標高300mの山地に中才(なかざい)、松尾・奥ケ市・惣ノ田(そうのた)・岡坂(おがさこ)の小集落が散在する。地名の由来は、同郡内東の東新宿に対して西新宿と呼んだが、宿場であったという記録はない。播美国境の村で、山間部に点在するわずかな平地に8集落あった。
慶長国絵図に新宿村と見える。のち三日月町域の新宿村と区別するために西新宿村と改称したが、地元では以降も新宿村ともいった。
紙漉きが行われており、嘉永元年(1848)には紙屋が45人おり、前年12月から4月までに1,226束の紙を漉出している。天保7年(1836)・同8年の飢饉で当村と大日山村で死者が185人もあった。慶応2年(1866)にも不作で餓死寸前となった住民が大日山村の農民とともに久崎村の酒屋・米屋などを打壊した。
氏神は八幡神社で、合祀前には愛宕社5・荒神社・山の神社4・大避社ほか4社を祀っていた。中才の集落に湧出山宝泉庵がある。寺院はなく、備前国八塔寺(現岡山県吉永町)の檀徒である。明治22年久崎村の大字となり、昭和15年久崎町、同33年上月町の大字となる。
交通不便の山間部で米麦作では生計をたてることが困難となり、明治30年前後から畜産・養蚕を副業とし、晩秋から初夏にわたり、製炭業関係の山林労務に従事。大正10年の木炭生産者46名。同12年電灯架設。昭和21年頃県境の台地大平に入植者2戸あり、開拓が始まり、同24年~28年までに入居者16軒・80人、乳牛を飼育した。昭和36年地内岡坂が全焼し、小学校は廃校、転出者が続出した。かつては100戸あったが、現在は昭和20年代の開拓地である大平の5戸を加えても30余戸である。
■大日山(おおびやま)
佐用川支流の大日山川流域の山間地。西新宿の北西、小日山村の南西に位置する。標高300m以上の山間地で大日山川の水源地帯。西は備前国和気郡滝谷村(現岡山県吉永町)、北は美作国英田郡白水村(現岡山県作東町)。大日山と向坂(むこうざか)の2集落よりなる。地名は、大日山川上流の日当たりのよい集落で、下流の小日山より戸数が多いところから名付けられたと思われる。城跡がある。
氏神は八幡神社で、寺院はない。慶応2年(1866)西新宿村の農民とともに百姓一揆を起こし、近郷の参加者とともに久崎村の商家に押しかけた。明治22年久崎村の大字となり、昭和15年久崎町、同33年上月町の大字となる。
嘉永元年(1848)には紙屋12軒が紙322束を漉出している。天正9年(1581)鎌倉鶴岡八幡宮より勧請したと伝える八幡神社がある。寺院はなく、江戸時代以来現在まで備前国八塔寺(現岡山県吉永町)の檀徒である。
明治30年前後から副業として畜産・養蚕に従事、また男子は初冬から初夏にかけて、製炭関係の山林業務に従事し、婦女子はわら芯きりに励み、副業が農業所得に匹敵するようになり、昭和25年頃まで続いた。大正12年電灯架設。
◇今回の発見
・天保の飢饉で、両村に多くの死者が出た記録が残る。
・両集落とも山間地で、江戸時代以降盛んに紙漉きが行われていた。古くから岡山の八塔寺との結びつきがあり、人的交流もあったのだろう。