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杉山を自然林に戻したい。
黒っぽい杉山を見るたびに子供の頃見た青い自然林を想う。山のことのみならず生活ブログです。

文語詩

2015年01月03日 13時58分58秒 | 
文語定型詩二編
             

「たまゆら」
     
かわのべに
あかとんぼ
とびかふは
ふるさとの
しまんとの
ゆくなつの
ためしなり

おさなきひ
あそびしは
かわのべの
どてのみち
つきみそう
いまもなお
つきまつや

おおかぜは
おさまりて
たのおもの
いろづくを
よろこびて
はらからは
いなごおふ

ひさかたの
ふそのやま
ほそみちを
たどりつつ
かたつむり
すみゐて
しずかなり

******************************************

「流れ星」

ながれ星ながれる空は
かそけくも残照ありて
がいとうのともしびのごと
わがむねに時を降らする
なぞここに君はいまさね
おのづから嘆きの声の
身よりいづ寂しき声ぞ

ながれ星往きしはいずこ
かさねては尋ふもよしなく
がにめでに霜は降るらし
わたる風木々をゆらして
なみき道追ひつたどりつ
おもわずて虚空のなかに
みそなわすまなざし追ひぬ

ながれ星ながるる果てに
かぎりなきさいはひ住みて
がらんどうひびきわたりて
わが思ひいざなひゐだす
ながこへをなつかしみつつ
おののきて暗がりの空
見返れば月はさやけし

 数年前、先年亡くなった飯島耕一が定型詩を容認することを言ったことがあった。一斉に多くの詩人達から「何を馬鹿なことを」という反論だの非難だの否定する声が上がった。
 定型詩が姿を消したのは拍数に依る音律の単調さに詩人達が飽きてしまったのと、詠嘆調の雰囲気に流れがちな詩形にウンザリしたことにある。つまり定型というスタイルが陳腐化してしまったということだ。破調に依る自由詩は如何にも斬新な雰囲気をもたらした。現今では口語自由詩が普通の詩形であり、詩の持つべき律は内在律と呼ばれるようになった。自由詩とは言ってもでたらめであっていいというのではなく、詩文であろうとするならば律は当然孕んでいなくてはいけない。その内在律とはいかなるものか。言葉の意味を強調する行分けの仕方に係っていると私は思っている。詩形は書くたびに探し確認する。これは詩であるか、詩と言えるか。
 佐藤春夫は現代詩の様子を指して「この頃の詩は言葉に美しさが見られない」と言ったそうだ。佐藤春夫の時代はともかく、戦後詩を見ていると、確かにそのような感じを受ける。朗唱したくなるような詩は戦後詩には無い。文字を絵画的に紙面に配するようなことがひと頃流行ったが、あんな物を詩と称するなんて、詩学社が倒産したのは当たり前というものだ。
 入沢靖夫は時々定型のスタイルを取る。彼の詩は音楽的で読んでいて楽しい。「詩は感想や印象を述べたり、演説をしたりするためにあるのではない」そうだ。同感。「幸せそれとも不幸せ」という彼の詩の冒頭を紹介。

心中しようと 二人で来れば
   ジャジャンカ ワイワイ
  山はにっこり相好くずし
  硫黄のけむりをまた吹き上げる
   ジャジャンカ ワイワイ
  
鳥も啼かない 焼石山を
  心中しようと辿っていけば
  弱い日ざしが 雲からおちる
   ジャジャンカ ワイワイ
  雲からおちる
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