普通の企業がグレー化し、グレー企業がブラック化し、ブラック企業は今や光さえ透過させぬ暗黒企業と化している。その代表が、原発事故以前には日本最大の企業だった東京電力で、巨大企業であっただけにその暗黒化は激しく、ブラックホールと化していて、電気料金の値上げや公的資金の投入、更には除染の国直轄事業化による費用負担の国民化という形で、様々な形で被災者支援に向ける金をケチり、自分の懐から金を一銭足りとも出さない用意を始めたようだ。
<福島原発事故>賠償金返還請求「高線量下、作業したのに」 と報じられてた内容は、驚くべきものである。東電の廃炉作業などを行っていた人々にまで、その家族などへの賠償金を変換しろ、という話だ。シンジラレナイ。
更に東電が暗黒企業と化しているのは「福島原発作業、日当「中抜き」容認・・・元請けに文書」という文書だ。このサイトには実物の文書とされるものも記載されているのだが、あれだけ過酷な被曝労働をしている作業員の待遇や環境の劣化放置を、つまりは向上させると「金がかかる」からやめてもいいよ、という話である。
実は新自由主義というのは、野放図な放置と変わらないという意味でもある。競い合い頑張れないやつは落ちこぼれ野垂れ死ねという世界なのだ。スポーツでも企業でも、実は勝者もいれば敗者もいる。今までの歴史、つまり今我々が知っている世界の歴史は勝者の歴史であり、敗者には触れていないし何をもたらしたかの検証さえ為されさない。その強者、勝者の論理、それが階級社会を作ってきた。王侯貴族のために平民は働き、ともすれば一兵卒として死を強要される社会構造だ。
しかし、そうした敗者の声も為政者に届けるということから、様々な市民革命などが起き、結果として現在のいわゆる「民主主義」国家が成立しているのである。強者の歴史に終止符を打つ行為が、弱者である民衆の民意を為政に及ぼすための民主主義となったのだ。
実は新自由主義というのは、民主主義とは相性が悪い。新自由主義という名の、いわば重商主義の焼き直しの論は、つまりは持てるものがその持つ事の優位さを、どれだけ利用し、さらなる利得を得るのか、という点に尽きる。独占や寡占による富の偏在を称揚し、その持つものが更に貪欲にその資産を増やすための政策を根付かせるための思想でもある。
競争原理を苛烈に推し進めると、それ以外の価値を社会全体が認めなくなる。儲けた人が消費をするから、経済効果は上がるなどという寝ぼけた事を言うヒトタチがいる。しかし、そうした消費は、金持ち同士の間での消費となり、そのおこぼれが庶民にまで回ってくる事は決して無い。現在のローマ法皇フランシスコは、こうした事態を正しく認識しているのだが、正しく認識しているが故に、新自由主義信奉者からは共産主義者のレッテルを貼られている。
そうではない事は、この記事を読めばわかるし、中には共産主義が貧者を生む、などという向きもある。税という形での経済の再分配が、インフラ整備の名の下、大量の国債を発行して借金を後世につけ回している間に、国家財政が見事に借金体質と変貌していった。そんな中での新自由主義である。その象徴とも言えるのが、東電の日当中抜き容認文書である。
元来、キリスト教にしろイスラーム教にしろ、多くの宗教で強欲は罪である。仏教だって輪廻転生の世界から解脱し仏となるには、こうした強欲に対する戒めがある。共産主義とは無関係に、強欲は人間の社会そのものを安寧に保持するものとはならない、いわば争いの元だということを、知っているのである。新自由主義は、その強欲の正当化に過ぎず、その強欲に反対する人間は共産主義者だと切り捨てることで、自己正当化をしているだけだ。
しかも、この強欲新自由主義の信奉者の多くが、実はそれほど豊かとは言えない階層の人間だったりする場合も多い。そうしたヒトタチは、新自由主義者の周囲に集まり、そこからわずかにこぼれ落ちる財貨による利得を得られると信じているのであるのだが、真の新自由主義者は、そんな利得を他人に与えるわけがない。まさか、本気で大企業が設ければ金は天下の回りもので、自分のところにも回ってくると思っているのだろうか。強欲暗黒ブラックホール企業の実態を、なにやら見誤っているとしか思えない。
小泉政権時、リーマンショック直前には、実は「市場最長の好景気」という時代が続いた。ところが、その好景気を支えていた企業に務めるサラリーマンの可処分所得、つまり使える金は、実際には減る一報である。企業は膨大な利益を、将来に備えて内部留保するとしたのだが、リーマンショックによる不況の際は、サラリーマンの雇用を守るために内部留保を吐き出すことなく、サラリーマンの首切りをリストラという名で推し進めたのである。好況の時の儲けは不況の時の雇用を守るためと言って従業員には支払わず、不況になると有無をいわさず従業員の首を切り、好況時に溜め込んだ金を持続的に保持し続ける。こうした企業の姿が、もうすでに十分ブラック化しえいるわけだ。この強欲な企業体質を、雇用の流動化を狙って作られた労働政策が後押しする。
非正規雇用が一般化しつつある中で、正規雇用者の労働環境は苛烈さを極める。非正規の中にいくらでもとって代わる要員がいる中で、正規雇用者はその地位を守るために、しかもリストラで歯抜け状態の職場であるために、一人あたりの仕事量、作業量は増大の一途だ。しかも、多くの場合は日々の仕事量が増えたとしても、残業請求は上限が設けられ、代わりはいくらでもいるよ、という圧力の下、多くの仕事がサービス残業となる。過剰な労働に神経をすり減らし、体を壊そうものなら、その場は非正規に取って代わられる。多少の体調不良はおして、仕事に励む。挙句の果てが過労死である。
もやは企業で雇用されている人の多くが、生きているだけ、あるいは生きるためだけにのみ働く。働くことの社会的な意味などは考えず、行っている仕事の社会性を考えない。考える事をやめなければ仕事が回らない。考えない立場で済む非正規労働者の簡便な使い回しであっても、会社は回っていく。非正規は建前上正規雇用の道が出来ているように見えるが、その継続期間などの契約で、正規雇用化しないように、非正規労働者を統括する派遣会社と契約を結ぶ。労働力は流動化し、熟練者は減少し、結果として企業の製品やサービスに齟齬が生じる。それを糊塗するため、様々な偽装が蔓延する。立派な偽装社会の成立であり、低廉で質の低い労働力により創りだされる製品は、次第次第に市場からの支持を減らす。
ああ、なんと黄昏の国の姿であるか。企業が暗黒化しているのに連動して、世の中に当たる陽の光は陰りをまし、落日の前の黄昏が日本全体を覆ってゆく。そしてその先には光すらない漆黒の闇が待っているのだ。