上田秀人のまぁ「トンデモ史観」なのだが、実にこれが織田信長の真実を描いているのではないかと思う程だ。史実として織田信長は一向一揆に苦戦している。その苦戦している事実と、キリスト教の宣教師庇護が、必ずしも一致しない理由は、信長が本能寺で本当は死んでおらず、生き返る事を画策していたという趣旨である。
しかし、事実上信長は死んだ。竹中半兵衛は秀吉の与力として信長の直臣ではあるが、秀吉配下の扱いとなっている。天主信長の表は、竹中半兵衛の視点で描かれ、それ半兵衛の死以降は竹中半兵衛であるならばこう見たであろうという視点で描かれる。
この「裏」は、竹中半兵衛亡き後秀吉の軍師を努めた黒田官兵衛からの視点で描かれる。
テーマは信長は「何者で何を求め何を成して何を成そうとしていたのか」である。天下布武による太平の世の到来は、ようやく徳川家康に拠ってなされたのだが、それは実は武家が持っていた武力の意味を失う世界であった。すでに五代将軍綱吉の頃には、実質的にこの国の支配は、特に経済的支配は商人に握られていた。
織田信長の為した行為は、武名が高い武人も、鉄砲足軽の放つ弾丸に、いとも容易く討ち取られるという「戦争の革命」である。故に、武名高い武人などは不要であり、竹中半兵衛や黒田官兵衛のような軍師による戦略に重きが置かれるようになった。武を誇る勇猛果敢な武将などは、実は無用の長物となっていくという、それまでの戦いの形式や様式の破壊である。
信長は、こうした戦争の形式だけではなく、既存の権威そのものを根こそぎ破戒して、自身が唯一の「神」として存在し、世界に覇を唱える事を目標としていたと、天主信長というこの小説では「表」でも「裏」でも描かれている。
現代から見た上田秀人は、キリストが賦活という奇跡を起したからこそ、いわゆる西欧ではキリスト教が隆盛を極め、異教徒との戦いである十字軍という途方も無い遠征を八回も行ってなお、日本に至るまでの一年に渡る航海を行なわせ、布教するだけの資力・財力がある事に驚嘆するわけだ。
信長は、既存の権威をすべて否定していたと上田は考える。そこから生み出されたものは、信長自身がキリストと化す事だった。つまりは殺害されたのに、その後生き返るという奇跡への演出である。
黒田官兵衛は敵方を説得するために捉えられ、敵の城中で幽閉されていた。信長は官兵衛の裏切りと思い、生来の短気から、人質として秀吉にあずけていた松寿丸という官兵衛の嫡子の殺害を命ずる。その松寿丸を匿い助けたのは、竹中半兵衛である。
苛烈な信長は、家臣からも畏怖はされていたが、裏切りが少なかったのは、裏切ったものに対する苛烈な処断があったからだ。無論、怨嗟は表沙汰にはならないが、渦巻いている。この死と復活の信長の芝居の最中に、信長を本能寺で伐ったという芝居の片割れを担がされた明智光秀は、命を守ったがゆえに、信長に見殺しにされる。松寿丸の件で信長に恨みを持つ官兵衛は、秀吉に信長復活を阻止し、秀吉こそ天下人になるべきだと吹込み、官兵衛自身が復活を画策し隠遁していた信長を討つ、となった状態で話は終わる。
上田秀人の史観は面白い。しかも「本当にありそう」な話である。例えば別のシリーズでは天海僧正について触れている部分がある。徳川家康の長男信康は、織田信長の命によって謀反を画策した家康の妻とともに殺害された。それを見届けたのが服部半蔵と天方山城守の二人だけである。天方山城守は実はその後は不明である。服部半蔵は伊賀の領主の一人であり、伊賀者の乱破や素破などの技法は、三河のような小さな領主である家康には必須だった。特に織田信長に付くことで、武田氏や今川、北条などの強力な勢力と直接退治するためには、伊賀者の力は必須だったわけだ。
ちなみに服部半蔵は伊賀の領主であり、伊賀者をすべて統括していたわけではない。領主としての立場が主なもので、百地などの上忍などの忍びとはいささか趣旨が異なるようだ。いずれにしても、後年になってから起きる家康の伊賀越などの事件から見ても、伊賀と徳川との結びつきは強い。天方山城守の存在が歴史に忽然と現れ、忽然と消える。他方で、服部半蔵は代々引き継がれる名前ではあるが、史実の中で残り続ける。
服部半蔵は信康の身代わりの首を信長に差し出し、行き証人である天方山城守を葬った。信康は生き延びそれが天海僧正となって家康を補佐し、弟秀忠将軍の重職を担い、家光の武家諸法度の作成にも関与したと考えると、なるほど、さもありなんという事なのだ。
かりに天海僧正が信康だったとして、どうして秀忠に将軍職を譲ったかという理由である。それは信長を裏切っていた家康が、天下人になる整合性が保てないためである。秀忠は三男である。長男の信康は信長の命により殺害されたという建前である。次男の秀康は、結城家に人質として出され、結城秀康と名乗った。秀康は類まれな猛将であったが、容貌怪異であったため、家康から疎まれていたと言う。したがって秀忠に将軍のお鉢が回ってきた。つまり、残りものだったために当たりを引き当てたわけである。
ただ、秀忠はそれほど有能ではなかった。武将としてもわずかな手勢の真田相手に苦戦し、それがために関ヶ原の合戦に遅参するという愚を犯している。それがために将軍とは名ばかりで、大御所院政が続いたのである。その知恵袋が天海僧正である。この異様なまでの結びつきに、上田は前述のような信康生存説を考え、その信康が生き延びて家康の側で政治をささえるという話を作り出した。
オレは、天主信長の信長像も、天海僧正の不明な出自や家康の重用の在り方からみて、その正体についても、なるほどと納得する事の方が多い。信長像も、信長がなぜあれほど既存の戦術や先方を徹底的に破戒するような戦い方を進めたのかが、こうした妄想の背景を知ると理解ができるような気がする。本当にトンデモ説なのだろうか。果たして。