先生との出会い(11)―1mile to water, 1 foot to hell!―(愚か者の回想四)
「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。
それは一人でタワーに上るようになって半月ほどが過ぎた頃のことだった。
プールで今日起きたことを話そうとすると、Yちゃん、「郵便が来ていたわよ。」と母が言った。封書である。
発信者は世界青少年交流協会となっている。忘れていた。
卒業直後、暇なのでたまたま見つけた交換学生募集に応募していたのだ。しかし、ずいぶん前に不合格通知が来ていたはずだ。
開封してみると繰り上げ合格という趣旨のことが書いてあった。辞退者が出たらしい。さてどうする。
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プールではようやくタワーに上れるようになったばかりだ。
ここで、約一か月間もプールに出ないのは難しい。
新人とはいえ見習いが終わりすでに正勤務者として勤務表に名前が入っている。
事実上、欠員が出るわけだから補充されても仕方がない。
自分の居場所が無くなるかもしれない。
不安になった。泳げなくなるのではないかという不安もあった。
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また、これとは別にもう一つ不安があった。
このプログラムに参加するには30万円が必要だった。
とんでもない額だ。
それでもすべての費用の三分の一程度だと書類には書いてあった。
受入国と財団がそれぞれ三分の一ずつ負担し、残りの三分の一を参加者が負担するのだという。
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「どうしよう。」と母に言うと、「行きたいの。」と問われた。
無知な私は迷っていた。
プールでは正勤務者になったばかりだ。その時はプールの仕事が楽しく、充実していた。
しかし、若いときに短期間でも海外を見ることには非常に大きな意味がある。
母はそう考えていたようだ。このプログラムに参加することを勧めてくれた。
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「参加費はどうしようか。」(私)
「お父さんに相談しなさい。」(母)。
50,000円で裏切られたので私は父を信用していなかった。
しかし、額が額だけにこれは父の英断を仰がなければならない。
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少額ならば母が出せると言った。しかし、全額は無理だと言う。
本当に行きたければ父に頭を下げろと母が言った。私は父に頭を下げた。
父は母の口添えもあり「分かった。」と言った。
薄給自衛官にとって30万円という額は重かったはずだ。今でも感謝している。
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参加費の工面はできた。だが、プログラムに参加するならばプールの方も考えなければならない。
こっちは自分が決断すべきことだ。誰にも切り出せないまま数日が過ぎた。参加費の工面ができたのだから何とかしなければならない。
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チーフのO先輩に相談した。私が話し終わると同時に、「行ってらっしゃい。帰ってきたら勤務に復帰すればいい。」そう言ってくれた。
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18歳の私は米国へ約1カ月の旅に出ることになった。1972年の夏であった。
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旅の行程はハワイ経由でロスアンゼルスに入り、数泊ホウムステイした後アリゾナ州のフィーニックスへ移動する。
そこで一週間程度ホウムステイし、フィーニックスカレッジというところで一コマお勉強。ジャパンナイトというお祭で交流。
その後はニューヨーク、バッファロウ、サンフランシスコを経て帰国。何のことはない、ほとんどが観光旅行だった。
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観光旅行だったとはいえ、18歳の私には強烈なインパクトがあった。
第一に、ものの見方が変わった。価値観が変わったというのかもしれない。妙なこだわりが無くなった。
第二に、「何とかなる」という根拠の無い自信がついた。
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出発前に合宿研修があった。辞退者の補充なのですでに研修会は始まっていた。
後から加わるという状況なので勝手が分からなかった。この時点で少し違う目で見られていた。18歳は最年少だった。
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研修で何を学ぶのか。まったく分からなかった。米国へ行くにあたり最も不安だったのが言葉だ。
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中学校では7点まで落ちた。高校では厚みが一センチにも満たない薄い教科書が年間一冊。しかも完結はしていなかった。到底実力がつく授業だったとは言えない。
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三年生の時、パワフルな先生が転任して来た。授業は一見活気があった。だが、試験では全滅した。結局、空回りしていた。
3学期の始め頃、およそ効果の無い受験勉強をしていた私に仲間が質問してきた。「エー動詞とは何だ。」と。
急に受験勉強を始めた男だ。「なんだそれは。」と訊き返すと「H、お前、知らないのか。ビー動詞ってのがあるだろう。エー動詞は無いのか。」と、真顔だった。
悲しくなった。さすがの私もそのあたりのことは知っていた。
このクラスはそういうレベルだったのか。そう思うとなんとなくほのぼのと可笑しくなった。
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そんなわけだから私がこの研修にかける期待は大きかった。少しは英語が話せるようになるのだと思った。
しかし、全く違っていた。たしかに英語の研修もあった。
だが、研修会では英語が得意な参加者がしゃべりまくり、その後、各自が片言の英語で自己紹介をするという程度のものであった。
その程度の会話なら私にもできた。発音はメチャクチャだったが。
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高校三年生の時、受験勉強と言っても私には何もできなかったのでラジオのイングリッシュエイジと大学受験講座を毎日聴いていた。
とにかく毎日聴き続けた。しかし、全く分からなかった。やはり自分は馬鹿だと諦めていた。ところが、この研修に参加して自分は馬鹿ではないと安堵した。
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参加者は皆、英語が話せる青年だと思っていた。
だが、そうではなかった。かなりの年配者もいた。英語が全く分からない人もいた。「私は自信をもって言える。英語は話せない。」そう語る年配者もいた。
募集案内には「日常会話が出きること。」と書いてあった記憶がある。
親近感を持ったがその人は私を嫌った。数日間の研修だったが何となく無事終了した。
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羽田発 JAL062便。これが私達が乗る飛行機だ。
高校時代の先輩数名が送りに来てくれた。嬉しかった。
離陸後、その中の一人、On先輩が私の自宅に「H君が乗った飛行機が無事離陸しました。」と電話で連絡してくれた。
帰国後、母は「立派な先輩だ。」と感謝していた。
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ホノルル国際空港経由でロスアンゼルスに着いたのは夕方か夜だったと記憶している。
ホストファミリーが迎えに来てくれた。
空港でそれぞれのホストファミリーが私達を連れ帰ってくれた。
私は年上のおじさんと一緒だった。
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ホストファミリーの自宅は郊外にあった。
立派だった。山の傾斜を利用して建物の二階と一階のいずれからも出入りができる構造になっていた。
ベッドが二台入ってもまだまだ余裕のある大きな部屋で米国初日の夜を迎えた。
ずいぶん疲れていた記憶がある。
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翌朝、ホストファミリーのパパがお越しに来てくれた。
ニコニコしているが言葉は通じなかった。
笑顔は万国共通語だと実感した。
ホストファミリーのママがディズニーランドへ連れて行ってくれた。
生まれて初めて行った遊園地がディズニーランドとなった。
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第二の訪問地はアリゾナ州フィーニックスだ。
砂漠につくられた軌跡の町だ。
空港から訪問先へ向かうバスでは鼻から空気を吸うと鼻毛がこげそうだった。「サウナだなぁ~、これは。」と同乗者が言った。
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水道とエアコンがなければ人は住めない。
1mile to water, 1 foot to hell! と書かれた絵葉書を買った。
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炎天下、停めてある自動車に乗るときは注意しなければならない。
不用意にドアの取っ手をつかむと火傷する。
私達のホストファミリーは私達の滞在中に新車を買った。
その日の前日、ホストファミリーの娘さんが私達に、ニコニコしながら興奮気味に何か話してくれた。new car と with air conditionerという単語だけが聞き取れた。エアコン付きの新車が来るのだと分った。それ以前の自動車のエアコンは不調だった。
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昼間の暑さは凄まじい。
だが、太陽が上る直前は快適だった。
早朝、砂漠の日の出を眺めに外へ出た。大変キレイだった。
部屋に戻るとホストファミリーのパパに「ガラガラヘビには気をつけろ。」と言われゾッとした。ヤバかった。私はデッキシューズを履いていた。
彼らがこの暑さの中、Levi'sのインディゴジーンズにロングブーツを履いている理由をこのとき初めて知った。
その夜、ライフル銃と散弾銃の使い方を教えてくれた。滞在中使うことは無かった。
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多くの家にはプールがあった。家庭用プールなのに飛び板があった。
小さいプールだが足がつくところと水深が3m以上ある部分とがあった。
その境目には目に見える境界は無い。怖い。
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2時間ほど裸でいるだけで日本のひと夏分の日焼けをした。
小学生の時の分まで日焼けをした気がした。
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ハプニングがあった。
(つづく)
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