先生との出会い(1)(愚か者の回想四)
「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。
「再任拒否」、「辞表を持って来い」、「すまなかった」これらのファンタジーは全てパワハラと呼ばれる状態だった。結局はイジメである。
思い起こせばいじめられるのは小学生の頃、中学生の頃、そして高校生の頃も同じだった。
それにもかかわらず、悲劇的な事態にも至らず十人並みに人生を送ってこられたのは家庭、とりわけ母の存在と良き先生との出会いがあったからだと思う。
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大正元年生まれの母は震災と戦災を生き抜いた強い人だった。戦時中は代用教員として疎開先の学童達の指導にもあたっていたという。
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子供の頃、母の話を聴くのが好きだった。武勇伝なぞは無い。だが大正から昭和にかけて時代が大きく動く中、逞しく生きた人の話には重みがあった。もっとたくさん聴いておけばよかったと後悔している。
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祖父(「おじいちゃん」)の話をよくしてくれた。長野県に生まれ40歳まで無職であったがその後40歳で東京に出て乾海苔を商い成功し財を築いた。切れ者だったそうだ。昭和16年、開戦の時、「この戦争はしてはいけない。負ける。これからは苦労するぞ。」と家族に告げていたという。
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おじいちゃんは大器であった。戦災の時、空襲警報が鳴り避難命令が出ると多くの商店が店を閉め施錠して非難するのに、おじいちゃんは店を開けたまま非難したそうだ。
警報が収まり避難命令が解除されて店に戻ると土間一面に紙幣やら小銭が散乱していたという。
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皆、着の身着のまま非難する。しかし、食い物は無い。「〇〇乾海苔商店」の看板があれば人は海苔でもいいから口に入るものを求める。店にはもちろん人はいない。こころある人は金を代金として投げ入れていった。
もちろん、無くなった品物と金の額が合うはずはない。しかし、店を閉じて逃げた食料品店は戸が壊され物が無くなっていたという。
「こういう非常時に儲けようとしてはダメだ。」これがおじいちゃんの心構えだった。
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おじいちゃんは「三番」と呼ばれていた。この当時も商人同士は互いを屋号で呼んでいた。しかし、「三番」という屋号は腑に落ちない。
あのような商売をするだけあって、おじいちゃんは乾海苔商組合でも人望が厚く長いあいだ副会長をしていたという。組合にはお頭(つむ)の薄い重鎮がいた。最も薄いのが会長。おじいちゃんは三番の薄さだったそうだ。
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乾海苔を商っている関係で寿司屋とのつながりもあった。毎年、新年会では必ず寿司折りを土産に持って帰ってきた。幼い母はこれがいつも楽しみだった。「寿司は『すしA』だ。あそこ以外はダメだ。」とつながりのある寿司屋の名をあげ自慢したという。
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我が家は貧乏であった。自衛官の父の給料は安い。それでも幼い私は寿司を食いたいと母にせがむことがあった。その都度母は、「このあたりのお寿司屋さんのお寿司はダメ。若いうちは本物の味を知らなければダメ。いつか必ず『すしA』のお寿司を食べさせてあげるから我慢しなさい。」と言っていた。「若いうち」もへったくれも無い、私はまだガキだ。
寿司を食えるだけの金が無いだけなのだが、母はこのように言って私を納得させていた。ちなみに、このときの記憶が大人になって思いがけない縁を結ぶのだがそれはまた別の機会にお話ししたい。
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正月になると毎年新品の服を着た。新年には新調した服を着るのが母方の習わしだった。そのこともあり私は子供の頃、我が家が貧乏だとは全く思わなかった。四畳半一間のアパートに四人が暮らす家族が裕福なはずはないのだが。
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母はいつも家にいた。私が身体の具合が悪く急に早退したときも母は必ず家にいた。今どきのように学校から自宅に連絡ができる環境は無かった。電話も共用電話が一本アパートの廊下に置いてあったが我が家は参加していなかったので外から連絡を取ることはできなかった。だから突然帰ることが何度もあった。しかし、いなかったことは一度もなかった。
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私は身体が弱かった。よく風邪をひいた。物心つく頃には自分が小児ぜんそくという病気であることを知った。当時、ぜんそくという言葉は多くの人が知るものではなかった。
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風邪をひくと学校を休んだ。布団の中で縮こまりながら母の話を聴いた。大震災の時は、屋根の瓦が全部落ちたがケガ人は無くおじいちゃんと長男(母の兄)が商店街の復興に大活躍した話。東京大空襲の時、長女(母の姉)が一面火の海の中、小学校の屋上に上がり子供三人全員を守ったこと。そして、それまで不仲だった長女をこのとき初めておじいちゃんが「金鵄勲章(キンシクンショウ)ものだ。」と褒めたこと。ゼイゼイしながらも母の話をゆっくり聴いていられるのが嬉しかった。
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父は軍人だった。特攻隊の生き残りだと言っていた。終戦の年、大陸で撃墜され九死に一生を得た。ジャングルを彷徨ったとも言っていた。
ケガが全治したとき「一度死んだ身だ」と特攻隊に志願した。
戦況は悪化していた。内地に戻り、知覧へ配属となった。戦友を送る日が続いたという。明日が自分の出撃の日だと聞かされた日の朝、正午に重大発表があると上官に言われ営舎に集合した。外地には終戦を知らずに命を落とした兵隊もいた。だが、父は命を拾った。一日違いで私はこの世にはいなかったことになる。
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開戦当時、志願兵だった父は大活躍したらしい。10人兄弟の末っ子として生まれたこともあり親との縁は薄かった。
16歳になるとすぐ志願し航空隊に入った。母には「10数機を撃墜したことがある。」と自慢話をしていたらしい。
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生まれは東京だが知縁をたどって知覧から鎌倉に戻った。詳しいことは話さなかったが鎌倉では木材の切り出し現場で監督をしていたらしい。母と知り合ったのも鎌倉だったという。気性の荒い人で短気を起こすと七輪の鍋を蹴とばした。夕飯の粥が消えた。
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短気が元で仕事場でも揉めることが多かった。そんなとき警察予備隊が創設され隊員募集の広告が新聞に載った。これを見つけた母は迷わず父に勧めた。これしかないと思ったそうだ。父にとっても天職だったに違いない。
しかし、戦時下の軍隊とは異なり、学歴が無かった父にとって楽な職場ではなかったようだ。何度もやめようとしたらしい。だが母が引き留めた。一回り年上の母を自分の母親に重ねたのかもしれない。母には逆らわなかった。
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昭和24年1月、長男が誕生した。第一子が生後間もなく他界したので長男はことのほか大切に育てられた。大切に育てられると同時に、男子であることから父が厳しくしつけた。今どきであれば虐待だとして通報されそうなこともあった。
短気な父は、とりわけ兄の態度に異常に反応し手を上げた。しかし、長じて知ることとなるが、父は母から「私に手を上げたらすぐに離婚します。」と結婚するときに宣言されていた。その為、母の身代わりに兄が殴られたときもあったらしい。
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昭和28年10月、私が誕生した。誕生したその日に「この子は私が育てます。」と母は父に宣言した。4才になっていた兄にはすでに少し変化が起きていた。暴力は人を育てなかった。
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昭和35年4月、私は小学校に入学した。母は勉強しろとは言わなかった。しかし、宿題が出れば全部やった。成績は5段階評価で常にオール3だった。母は「3は普通だから十分だ。あなたは優秀だ。」と褒めてくれた。普通で優秀というのも今考えれば変な話だが、当時は「優秀」というところだけが頭に残り、自分は優秀なんだと勘違いして生きていた。
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この調子で3年間が過ぎた。学校で習うことはすべて知っていた。とりわけ国語と社会の授業では「分かる人」という先生の声にいつも真っ先に手を挙げて答えていた。
国語では教科書に出て来る漢字や表現の意味を先生が問いかけるが、誰も手を挙げないときも手をあげ答えていた。社会では当時の首相及び閣僚の名前をすべて覚えていて教室で諳んじて見せたこともあった。
父兄会で「何か特別な学習をしていますか。」と担任から母が尋ねられたこともあったそうだ。いろいろなことを知っていた理由には思い当たるところが無い。だが、ひょっとするといつも楽しく聴いていた母の話から知識を得ていたのかもしれない。
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事態が急変したのは4年生になってからだった。
(つづく)
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