排除法則(the Exclusionary Rule)は警察実務や一部の学者から劇薬などと批判された。
しかし、日本とは異なり警察実務を直接監督することになる米合衆国最高裁判所は頑強にこの準則を維持した。
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排除法則とはその名の通り米合衆国憲法に違反する活動が捜査の過程で生じた場合その活動は無かったこととされる準則である。
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表現が難しい。
「無かったこととされる」というのは日本人が、しばしば、「あのことは無かったことにしてくれ」と言う脈絡で使われるものとは全く違う。この点を誤解すると結果が逆になる。
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有罪証拠となりうるものを入手した捜査活動の存在それ自体が消されるということだ。
したがって、後になって消される結果となる捜査活動、たとえば、それが捜索や押収であればそこで得られた物、それが取調であればそこで得られた供述も、その元となった活動が消されてしまえば、当然、物も供述も消えてしまい何も残らない。有罪立証は不可能だ。
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仮に憲法に違反する捜査で得られた証拠が特定の人を確実に有罪だと指していても、その証拠でその人を有罪とすることはできない。その結果、しばしば、凶悪犯が街に放たれることになる。映画「ダーティハリー」はこの過程を臨場感を持って描写している。
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キャラハン刑事は施錠されたスタジアムのフェンスを無令状で乗り越えた。無礼状の立ち入りであり第4修正違反である。
次に、容疑者のドアを蹴破って中に入った。これも第4修正違反である。
したがって、容疑者の部屋から発見された狙撃用ライフル銃は公判では存在しないものとして扱われる。
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さらに逃げる容疑者の足を撃ち、その痛がる足を踏みつけて被害者の居場所を聴き出した。
容疑者は弁護権を主張していた。適正手続違反と弁護人依頼権の侵害があり第5修正と第6修正に違反している。
したがって、この供述も刑事手続上、無いものとして扱われる。
もちろん、容疑者の供述に基づいて行われた捜索で発見された被害者のご遺体も無いものとして扱われる。
ちなみに、これを「毒樹の果実」理論(Fruit of the Poisonous Tree doctrine)という。毒の樹に生る果実はそれも毒だという趣旨だ。
つまり、容疑者の弁護権の主張を無視して供述を引き出す行為は、もとより弁護権(第6修正)侵害であり同時に供述の自由(第5修正)の侵害であるから自白や「秘密の暴露」があってもそれは排除される。この自白や「秘密の暴露」が毒樹。
そして、この自白や「秘密の暴露」を手掛かりに発見された被害者の遺体が「毒樹の果実」。したがって、これも排除される。
重要な証拠がすべて排除されるのだから容疑者の有罪立証は絶望的である。
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このあたりまで説明すると300人前後いる教室でも水を打ったようになる。
「ご質問は?」と言ってもそのままであることが何度もあった。愉快だ。20年くらい前の話だ。懐かしい。
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映画「ダーティーハリー」は単なるアクション映画や娯楽映画ではなく、この裁判実務を批判して制作されたものだと言ってよい。
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他方、日本では当時もその後も警察の粗暴捜査は米国ほど顕著ではなく、そのこともあって純粋な形でこの排除法則が適用されたことは無い。
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もっとも、排除法則は一部の学者や実務家によりドイツ型の証拠禁止法理(Beweisverbote)と混同され、ときには「違法収集証拠の排除」という文字列で甚だ不完全な形で動いている。深入りし過ぎた。これ以上はやめよう。
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要は法運用とは法律を文字通りに当てはめれば解決できるというわけではないということだ。
条文を知っていればそれでどうにかなるという代物ではまったくない。
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法律の枠を出ない限度で最も妥当で合理的かつ論理的な解決策を見つけるのが真の法運用である。
その訓練をするのが大学院のゼミである。したがって、何が合理的で何が論理的なのかという問を突き詰めて考えなければならない。
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しかし、そればかりを追うと妥当性を欠く結果となるのでここらあたりを微調整する理屈も考える。これが中央法学が他大学と異なる点なのだと思う。
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通常、法律家といえば実務法曹を指すが、実務法曹は当然のことながら司法試験に合格していなければならない。
私はOs先生との約束でこの試験を受けなかった。
だが、受験勉強をしている人はたくさん見て来た。
また、なぜか、司法試験予備校が開催する受験セミナーで講師として刑法総論を講じた事もあった。
また、判事、検事、弁護士が参加する研究会で遊んだこともある。
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これらの経験から一つ気付いたことがある。
それは、実務法曹、とりわけ弁護士は『法律』の適用を第一に考える傾向が強い。当然と言えば当然だが、異論もあろうが勘弁してほしい。
「気付いたこと」でしかないのだから。
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これに対して、法学者は事件や紛争の妥当な解決を模索し、それに適う法律を探すというやり方をする。
この構図は前者がドイツ法型、後者が英米法型と言ってもよい。まぁ、法学者の中にもカリカリのドイツ法学者もいるから断定はできない。
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一般論だが、ドイツ法学では、法発見という文字(Rechtsfindung)はあるが法発見という考え方は支配的ではないと言ってよい。近年、ドイツ法学者の中にも英米法に深い関心を寄せるものも多くなり教科書レベルではそれらしい記述も散見できるが国全体として眺めると英米法型とは言い難い。
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これに対して、英米法学では法発見こそが法律家の使命だとされている。
ちなみに、学生の頃、「ドイツには法社会学という独立した学問領域があるが米国には無い。」という某学者の発言を耳にしたことがある。
まさかと思い種々調べるとこの発言に対し英米法のある学者がうまいことを言って反論していた。(つづく)
※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。
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