先生との出会い(6)― ライフガードへの道 ―(愚か者の回想四)
「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。
3年生の時、学校にプールができた。それまであった釣り堀のような水桶が立派な25mプールに変身した。
私はこの時まで泳げなかった。泳げなかったが水泳が得意な仲間と水泳部をつくった。
その年の夏休みは毎日登校し朝8時30分から夜7時頃まで泳いでいた。全く泳げなかったので1年生に教わった。初めて夏休みを楽しいと思った。
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一緒に活動する仲間もできた。習った泳法は平泳ぎ。試みにタイムを取り始めると泳ぐたびにタイムが上がった。当たり前と言えば当たり前だ。泳げなかったのだから。
F.S.先生も夏休みの当番のときは泳ぎに来ていた。
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水底に寝ころび空を見上げるとキレイだった。夕暮れ時はとりわけ太陽が水面でキラキラして絶景だった。
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二学期になり校内水泳大会が開催された。なぜか予選落ちしなかった。その後も勝ち進んだ。決勝の時、準決勝を一位で通過した生徒が帰宅してしまったため残った生徒だけで決勝を行った。50mの平泳ぎで一等になった。生まれて初めてだった。これまでの運動会では常に三等だった。
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「日本中のどの大学を受けても今は入れない。」と進路相談をしたとき、F.S.先生がおっしゃった。もちろん、自分でもその通りだと納得していた。来春合格する見込みが全く無いまま浪人生活に突入した。このときの両親の気持ちを今、聴いてみたい。
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卒業式が終わり、家でぷらぷらしていると高校時代の友人からアルバイトの誘いがあった。プールの監視員である。
「日本赤十字社救急法救急員又は水上安全法救助員の有資格者」であることが条件だった。この友人も私もたまたま高校在学中に救急法救急員の講習を受け適任証を交付されていた。
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そのプールは都内にあった。1964年の東京オリンピックで水球の会場となったプールである。50mの競泳用プールと飛込みプールがあった。いずれも公式である。競泳用プールの水深は最深2.4m。水球で使用したときは外国人選手の身長が高いので、プールサイドの排水口をふさぎ2.6mまで水面を上げて使用したそうだ。一般公開時は少し水位を下げていた。だが、泳げない人は当然、溺れるプールだった。
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現在は少なくなったようだが、当時でも一般公開しているプールで水深が2メールを超えるものは多くは無かった。監視員はライフガードと呼ばれた。これが正式な呼び名だとはその後しばらくしてから知った。
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今でもLife Guardと印刷されたTシャツを着て颯爽と歩く若者を夏場のプールでは見かける。だが、その仕事の多くは監視の他、水質検査やチケットのチギリ、場内や更衣室の清掃であることが多い。
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しかし、当時のこのプールでは、監視能力もさることながら、万一のときに備え、溺者を水面で運ぶ溺者救助法の能力が無ければ正規の勤務者にはなれなかった。
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控室に通された。まだ勤務時間には間があるので勤務者はいなかった。一通り説明を受けた後、資料に目を通しながら時間が来るのを待った。プール特有の匂いが私は好きだった。
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しばらくすると三々五々勤務者が控室に入って来た。
「新人です。よろしくお願いします。」と頭を下げた。
「よろしくね。」と軽く答えてくれた。
服を着ていると分らないが水着に着替えるとその体の逞しさに驚いた。顔からは想像できない筋肉質だった。
その後、数人が続けて入って来た。
「新人です。よろしくお願いします。」と再び頭を下げた。
「よろしくね。」と再び軽く答えてくれた。
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私も、「これ履いて。」と手渡された水着に着替えた。ユニフォームは赤のトランクス型パンツと赤い水泳帽だ。赤いジャンパーもあったがほとんどの人は着ていなかった。
「今日は私について。」とサブチーフのK先輩が言った。横を通り過ぎた筋肉質の先輩が、「続くといいね。頑張ってね。」と声を掛けてくれた。その意味は練習が始まってから分かった。私の身体があまりにも貧弱だったからだと思う。
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見習い勤務が始まった。はじめはプール自体や周辺設備を覚えた。シャワー室の奥には小さな風呂もあった。以前ここで倒れていた人がいたと聞いて驚いた。温度差が身体に影響するらしい。ここまでがパトロールの領域だ。
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公開前だったので監視台にも上った。下から眺めるよりはるかに高い。向かい側の人が小さく見えるほどだ。50mの競泳用プールの横幅は20mだった。この距離で話もできなければならないとも言われた。声を鍛えよう。しかし、公開中に会話をしたことは無かった。
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泳法訓練も始まった。溺者救助法の訓練が厳しかった。しかし、楽しかった。暫し受験を忘れ練習に打ち込んだ。
一年前まで泳げなかった男が救助員に挑戦している。見習い期間は2カ月に及んだ。
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現在では、こうした見習い期間でも給料が支給されるらしい。だが、当時は無給だった。「金が欲しけりゃ早く一人前になれ。」という世界だった。嫌いではない世界だ。
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ライフガードはほぼ全員大学生だった。浪人生も私の他に一人いた。彼は水泳の元国体選手だ。
他にも実力名門校の水球選手や体育専門大学の水泳部の選手が多かった。
若い連中を束ねる職員が二人いた。そのうちの一人は日本で最初のライフガードだということだった。
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練習では普通の泳法は当然のことながら、これとは別に溺者を運ぶ「巻き足」という立体泳法の練習が行われた。水球選手やシンクロナイズドスイミングの選手が得意とする泳法だ。普通の人にはなじみが薄いだろう。これを徹底的に叩き込まれた。
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さらに、実際に水面で人を運ぶ練習をした。これはとりわけハードだった。なぜならば、溺者は苦しいので人が近づくとその人にしがみつき大暴れする。私も正勤務に就いた後、実際の溺者を運んだことがあるがその力は凄まじい。死にもの狂いとはよく言ったものだ。そのくらい強い力でしがみついてくる。女性でも子供でもその力は強い。おそらく訓練を受けていない人が溺者を素手で助けようとすれば一緒に溺れるに違いない。
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溺者救助法の練習は溺者役の先輩を新人や後輩が助けるというやり方で行われた。
始めは、ただ運ぶだけだ。ただ運ぶだけと言っても、技術が無ければ、結果的に溺者役の先輩にしがみついてしまうことになる。普通の訓練では、人を水面で運べるようになるまでに数か月かかると言われていた。
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しかし、ここではそんなのんびりしたことはしていなかった。先輩はとにかく運べと励ましてくれた。励ましてくれると同時に負荷もかけてくれた。本当に溺れた人を何度も運んだ経験のある先輩たちの動きには説得力があった。
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「なんたらという人たちはあれこれ救助法について語るがあれで本当に溺者を運べるのか。」と言う先輩もいた。実際この先輩の実力には目を見張るものがあった。
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普通に運べるようになると先輩は、水中ダイビングで身体に巻くウエットベルトを付けた。ウエットを数個つけた状態で両手を上げて浮いている。その巻き足の強さに憧れた。否、憧れている場合ではない。その先輩を運ぶのである。重い。足が痺れてくる。しかし、練習はこの段階では終わらなかった。
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水球を水中の格闘技と呼ぶらしいが、ライフガードの訓練は文字通り水中での格闘だった。ウエットを数個付けてもなお水中を自由に泳ぎ回る人が、今度は絡みついてくるのである。これを振りほどき背後に回り込む。水面にいて溺者の視界と手の届く距離に入れば必ずしがみつかれる。そこで、溺者役の先輩に接近し、抱き着かれそうになる直前に水中に潜り背後に回る。このタイミングを間違い水底まで引きずり込まれたことも何度かあった。
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後日、立場がかわり、私が指導する側になったとき、同じようなことが起きた。(つづく)
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