ネタばれせずにCINEるか

かなり悪いオヤジの超独断映画批評。ネタばれごめんの毒舌映画評論ですのでお取扱いにはご注意願います。

稲妻

2019年02月11日 | なつかシネマ篇


バスガイドの清子(高峰秀子)にはそれぞれ父親の異なる3人の兄姉がいる。いけずな長女縫子(村田知栄子)の夫龍三(植村謙太郎)は大言壮語のアル中男、次女光子(三浦光子)は浮気夫急死のショックさめやらぬまま夫の保険金を周囲にねだられる三重苦の女。戦地で銃弾を浴びた兄嘉助は、今でいうPTSD=南方ボケでまともな職につく気などさらさらない。そんな有象無象の兄弟とずるずるベッタリの関係を続けている母おせい(浦辺粂子)と同居しているのが嫌で嫌でたまらない清子に、闇市でのしあがった綱吉(小沢栄→栄太郎)との縁談話がもちあがるのだが…

とにかくこの映画に登場する男たち、だらしないことこの上ない。金を無心をしては事業に失敗し酒を飲んでくだをまく龍三、いわゆるニートの兄嘉助は仕事が続かないことを人のせいにするパチンカーだ。唯一生活力のありそうな綱吉にしても、出資をエサに3姉妹と関係をもとうとするどうしようもないダラちん男である。戦後の男女比1:23の買い手市場とはいえ、そんなダメンズとの結婚にまったく将来が見えない清子は、実家の2階を間借りしている清貧のキャリアウーマンがうらやましくてしょうがないのである。

人はパンのみに生きるにあらず。しかしパンがなければ生きられない。戦後の貧困から抜け出せない日本を庶民の目線で描いた林芙美子の原作を田中澄江が脚色。代表作といわれる『浮雲』とよく比較される本作であるが、どしゃぶりの雨の後にかかる虹のごときカタルシスを得られる非常に成瀬らしい作品だ。“母の不在”を描くことが多かった小津安二郎に対して成瀬巳喜男は、本作で“不在の父親”を映画のテーマにしたのではないか。

ずるずるベッタリ兄弟の父親4人はいずれも他界しており、唯一隠し子のいた次女光子の亭主呂平も急死、主人公の清子が実家を飛び出し駆け込んだ世田谷の下宿先の主も妻を残してすでに死んでおり、かつ下宿隣に住んでいる清らか兄妹(根上淳&香川京子)にも親がいない。戦後後遺症のリアリティであることはまちがいないが、映画タイトルの『稲妻』をシンボライズするための演出だったのではないかと思うのである。

ラスト近くで「なんで一人の父親で4人を生んでくれなかったの。生まれてこなけれなばよかった」と下宿を訪ねてきたおせいをなじり清子が泣き出すと、「お前が一番親不孝だよ」といっておせいがもらい泣きするシーンがある。下宿の窓から遠くで光る“稲妻”を目にする清子。その後、隣家から兄周三が奏でるピアノの音が鳴り響き、気持ちが急にやわらいだ清子はおせいに優しい態度を取り出すのである。

稲妻の語源を調べると元は「稲の夫」と言われていたそうで、空気中の窒素が放電により分解され硝酸となり、それが稲の発育にとって好条件となったことがどうも由来のようなのだ。清子の場合、自分の目を美しいといってほめてくれた妹思いの周三に好意をよせながら、どこか父親の面影をそこに重ねていたのではないか。(実家の醜い諍いを連想させる)“稲の夫”が光った時、金にあくせくするだけの余裕のない時代が間もなく終わることを、お隣のピアノの音と共に清子は悟ったのではないか。雷オヤジが降らせた雨によって、“パン”とは違う“稲”が育ち、娘と母が歩むぬかるんだ道もいずれ固まるのだろうか。

稲妻
監督 成瀬巳喜男(1952年)
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