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意思による楽観のための読書日記

歴史のIF 本郷和人 ***

日本史で過去に起きた事件や出来事で、この人物はなぜこんな判断をしたのかを疑問に思ったり、これは偶然だ、と感じることもある。大河ドラマを見ていると、そんな場面をたくさん目にする気がする。本書では、そのような判断があったと思われる場面を選び、その場面に至る経緯を解説した上で、もし違った判断をしていたらどうなっていただろうかを、歴史学者の立場で推測してみる、という一冊。

<石橋山で梶原景時が源頼朝を「見つけたぞ!」と叫んでいたら>
たった300人の手勢で3000人を相手に立ち上がったのが石橋山の戦いだった。相手方の御家人だった梶原景時は、先祖の代には源氏の家来であり、宿敵ではなかった。関東の地侍たちは、京の都で天皇家の権威を背景として威張っている平氏に頭が上がらなかったが、逆らう勇気もないという状況だった。頼朝は関東の侍たちからは在地領主の代表と見られており、景時はとっさに頼朝を見逃す判断をした。しかし生き延びた頼朝はこの後、京の天皇家から国司任命権を獲得し征夷大将軍に任じられることになる。石橋山の戦いで頼朝が死んでいれば、次の武士の頭領登場を待つことになり、その候補は源氏系統であれば木曽義仲、佐竹、武田などであり、武士の世の中が到来するのが10年以上は遅れていた。

<源頼家の重病、比企能員が北条時政の誘いに慎重であれば>
悪評の頼家を亡き者とする相談は御家人たちの間で交わされたが、その時、勢力争いをしていた時政の館に一人で武器も保たずに向かった比企能員に、もう少し慎重さがあれば、北条氏による執権政治はなかった可能性もあり、鎌倉殿の13人で生き残る顔ぶれも大きく変わっていたと思われる。

<元寇に先立って受け取ったモンゴルからの国書を読み解く教養が鎌倉武士たちになかった>
文永・弘安の役に先立ち、モンゴルからは丁重な国書が鎌倉に届いていた。しかし幕府はその国書を無視、再度の問い合わせには使者を切り捨てる、という強硬な対応を取った。痩せた土地しかなさそうな日本列島にも偵察者を送ってきていたモンゴル、文永の役では日本列島を探索する、政府の対応を探る意味があった。そのころの世界情勢のことなどを全くと言っていいほど頭になかった鎌倉武士たち、運良く列島に襲いかかった台風の大風に救われたが、鎌倉の武士たちにもう少しの世界情勢への認識と外交への知識があれば、その後の海外貿易はもう少し変わっていたかもしれないが、もっと大きな意味は、「神風で勝利した」という神話的歴史観。日本は神の国、などと信じる人による戦争不敗神話を信じて、無謀な戦争に立ち向かったのは元寇の600年もあとのことだった。

その他には、
<足利尊氏が後醍醐天皇に反逆しなかったら>
それでも、天皇家による権力復活はなく、京の町に武家の政権が築かれた。
<足利義満がもう少し長生きしたら>
天皇家を乗っ取り、皇位を簒奪していたか、といえばそれはなかった。天皇家を上回る権力を維持しながら天皇家を手玉に取った。
<畠山持国が男としての自信をもう少し持っていたら>
畠山家のお家騒動はなく、応仁の乱の様相も変化した可能性がある。
<浅井長政が信長を裏切らなかったら>
信長に重用され、秀吉や光秀なみに扱われていたはずで、浅井家はその後の時代に生き延びた可能性あり。
<本能寺の変で信忠が逃げていたら>
秀吉主導による清州会議は、信長後継者として明らかだった信忠主導となっていた可能性あり。
<上杉軍が関ケ原に向かうために背を向けた徳川軍を襲っていたら>
石田三成は上杉軍が立ち上がると期待していた。もしも襲っていたら徳川軍の進軍は思うようにはできておらず、関ヶ原の戦いの帰趨は違っていたかも。
<毛利輝元が大坂城に籠城していたら>
家康に騙され大坂城を出たことで、毛利輝元は自分の首を絞めた。
などなど。

思わぬ歴史の切り口で日本史を振り返ってみる格好の一冊。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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