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意思による楽観のための読書日記

京都宇治原子炉 世界初の反原子力住民運動の記録 玉井和次 ****

京都の友人から手に入れた一冊。1954年から京都大学が中心となり予算要求してきた研究用原子炉建設に3000万円の予算がついたのが1956年。1957年1月には宇治市木幡が建設地第一候補となり、それを聞いた地元住民の強烈な反対運動が起こり同年8月には候補地から宇治が外れた、その運動についてのドキュメント。

この反対運動を語るためには歴史的背景が重要。研究原子炉の候補地となった宇治市木幡というのは宇治川東岸にあり、一帯の土地は江戸時代に幕府の援助もあり創建された黄檗山萬福寺により広大な土地が所有されていた。明治維新後、火薬製造工場と火薬庫が戦場に近い西日本にも必要と考えた大山益次郎肝いりで奈良線と宇治川の間の土地が萬福寺から買い上げられた。その後、火薬工場と火薬庫などが設置されたが、戦争中は空爆があり、戦時中から戦後にかけて合計6回、戦後も1951年と反対運動が始まっていた1952年2月にも爆発事故を起こしてきた。事故はすべてが人為的操作や作業手順ミスによる爆発だった。中でも1937年大文字の送り火の夜の大爆発事故では周囲4km四方は大音響が鳴り響いたあと建物は木っ端微塵に吹き飛んだという。爆発は三回起きて、宇治川を挟んだ反対側でも火災が発生。全壊142戸、半壊139戸、犠牲者7名、重症4名、軽症14名という被害で、今でも語り継がれているという。1950年には朝鮮戦争が勃発、火薬庫復活の動きがあったが住民による反対運動もあり実現しなかった。

太平洋戦争中には京都大学の原子力関連物理学者は、軍部からの協力要請があり原子力の武器転用についての研究を迫られたが未完成のまま終戦。戦後、その反省から原子力平和利用への動きが始まる。1949年の湯川博士による中間子理論に対するノーベル賞受賞には日本中が湧いた。1953年にはアメリカのアイゼンハワー大統領による「原子力平和利用」演説があり、1955年には日本からアメリカのアルゴンヌ原子力研究所へ留学者を出している。留学者の一部が、茨城県東海村の日本原子力研究所において本格的な研究を開始、その後は1963年日本初の原子炉を完成させ、1966年からは東海原発、1970年福井美浜原発での商用利用が始まった。

戦後の復興で急増した電力需要を賄うため、日本でも電力開発のための原子炉導入は決定されたが、戦後直後の日本には国産原子炉を開発する技術がなかったのである。各電力会社は原発を設置するためには海外製の原子炉を輸入するしかなかった。京大、阪大での研究者の中にも原子炉研究の声が上がる。政治家の中にも原子力平和利用に前向きな動きが始まる。先頭に立ったのは1947年に初当選していた中曽根康弘で、1954年に原子力研究開発予算2億3500万円(ウラン235よりと言われた)を獲得した。その後は1955年に初当選し、翌年からは鳩山内閣で原子力委員会委員長に指名された正力松太郎、「五年後に日本に原発をつくる」と発言。正力は代議士をやめたあと読売新聞社主に復帰、日本テレビ社長として原発平和利用キャンペーンを繰り広げた。日本初のアニメーション番組で原子力平和利用をアピールした「鉄腕アトム」は日本テレビ系列で放送された。

一方、広島・長崎原爆投下を経験した日本には原子力と放射能アレルギーが強かった。1946年からのビキニ環礁での米による原発実験、1954年の第五福竜丸の被爆は原子力利用に反対するの運動に勢いをつけた。日本学術会議は、政治主導で進められ始めた原子力開発に危機感を示し、研究が始まったばかりで経験不足の日本には原子炉の建設は早すぎると批判。原子力の利用に関する3原則、「日本国民による自主的で民主的、かつ研究成果を公開する」を決定した。反原子力の象徴が映画「ゴジラ」、推進側が「鉄腕アトム」となる。手塚治虫は1952年の連載開始時には無邪気に原子力平和利用を信じ、妹はウラン、兄はコバルトと名付けたが、その後大いに悔やんだという。

こうした中で1957年1月に突如発表された「宇治が第一候補」という内容に、寝耳に水の地元民は腰を抜かすほど驚いた。即刻、「反対同盟」が結成され、宇治川の水を飲料とする800万人の住民を抱える大阪府議会と協力、国会への陳情、住民証言を実施。1956年11月に第一回の会議が開かれ、第三回会議で宇治市への原子炉設置を提言した研究用原子炉設置準備委員会は、同年4月に候補地決定には住民の意見を聞き、安全性についての研究が必要と結論し、8月の第五回会議で宇治を候補地から外した。

自分たちが通うのに便利な場所を候補地としてあげた京大教授たちに対し、阪大側の教授陣は海岸沿いの地を大阪府の候補地としてあげていて、安全性認識の相違があったことを表している。「科学技術の平和利用」に地元民にこんなに反対されるとは、準備委員会メンバーになった京大の先生たちは想像もしていなかったのである。加えて、安全性を主張し信じてもいた京大教授たち自身も、原子力の安全性についての説明はできても、原子炉実装にあたってのリスクに関する理解がほとんどできていなかった。

住民代表の川上美貞氏はお茶製造業者の代表者でもあり、1957年2月の国会証言のポイントは次の通り。この証言に必要な論点はすべて含まれている。
1. 原子力に代表される科学技術の活用には賛成。
2. 原子炉の安全性については、京大の先生は安全と言われたが、阪大の先生の中にはその安全性に疑念を持つ方もいる。
3. 候補地の土地には以前火薬庫があり6回も爆発事故を起こしている。原因は人的ミス。技術的には安全なはずでも操作するのは人間であり、ミスはありえるものとして取り組むことが重要。
4. 原子炉には水源が必要であり処理排水がある。茶を育て販売する業者が集中する宇治に原子炉があると風評被害が発生する懸念がある。宇治茶を飲んでいる国民は600万人以上いる。
5. 大坂800万住民は宇治川の水を飲料とするため、放射能汚染が懸念される。
6. 宇治川は水害が発生する懸念があり、地震による被害も心配だ。
7. 米ソ英仏による原爆・水爆実験に反対するのは放射能の危険を感じるからである。水源汚染の心配をするのは宇治と、清酒製造の伏見、そして大阪府民。京都に暮らす京大の先生たちは琵琶湖の水を直接疎水で引いているからか真剣味が足りない。
8. 京大の先生は私が国会で証言する前の日になって初めて私に会いに来た。日本学術会議の3原則を、研究原子炉設置でも守るべきであり、宇治住民の意見を聞かずに候補地としたのは民主主義に反しており遺憾である。
9. 京大の先生に個別に意見を聞くと「個人的には反対だが組織人としては反対できない」とおっしゃる。学者の良心を疑う。それではなぜ宇治に設置することにしたのかと問うと、通うのに便利だからという。学者の人格まで疑うことになるのは悲しいこと。
10. 選挙区の政治家の岡本代議士(左派社会党)も安全性を説明してくれたが、危険性も説明してくれない限りは説明には納得はできない。
11. 先日も宇治市木幡の火薬庫跡で爆発があったばかり。火薬庫解体作業を業者に任せ、1円でも安くあげようとする政府(財務省)姿勢に疑念を抱いている。原子炉にも充分な予算が安全上必要である。
12. 反対の署名を集めたところ、木幡住民2300人中3日間で1500もの署名が集まった。住民は本件に関し、反対で一致している。

本書内容は以上。

当時の京都二区選出の代議士は5人、芦田均(日本民主党)、前尾繁三郎
(自由党)、岡本隆一(左派社会党)、川崎末五郎(日本民主党)、柳田秀一(左派社会党) である。野党側も2名いるはずなのに、川上さん証言にある通り、国会議員は目立った反対運動をしていない。政治家の間にも原子力平和利用の功罪の理解が進んでいなかったのではないか。

宇治川は江戸時代から氾濫を繰り返してきた歴史がある。宇治川が流れている宇治市のある場所には巨椋池という巨大な池が戦中まで存在したが、その池が洪水調整池の働きも行っていた。戦争中、農地確保のため埋め立てられ、空港建設なども試みられたが、その後は農地となっていく。その後、洪水対策のためダム建設が計画され、1964年には天ケ瀬ダムが完成。それ以降は大きな洪水は起きてはいないが、戦後からダム完成まででも伊勢湾、第二室戸などの大台風のあとには木幡地区でも洪水が発生。候補地であった場所は、旧国鉄奈良線の際まで水浸しになったことがある。原子炉が設置されていれば、水没、電源喪失などの大事故となっていた可能性がある。

反対運動の先頭に立っていた宇治市会議員が運動最中に急死したり、明治生まれの硬骨漢が国会で証言したりと、当時の反対運動の熱気が伝わってくる貴重な記録である。原発設置に対する住民運動の嚆矢であり、全国の、特に京都と大阪、宇治の図書館には残しておきたい一冊。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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