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意思による楽観のための読書日記

あの戦争から遠く離れて 城戸久枝 *****

中国残留孤児の物語としては、「大地の子」という山崎豊子の作品があり、NHKでも放映されたのでご承知の方も多いと思う。ひょっとしたら、藤原ていの「流れる星は生きている」を読んだ方もいるかも知れない。2009年4月にはNHKで「遥かなる絆」として放送されたのが本書。中国残留孤児の帰還事業が始まる前の1970年に中国から日本に帰国した城戸幹さんの中国での生い立ちからその後の成長を描いた、帰国後に結婚しその娘として生まれてきた作者久枝さんによる、父の生い立ちを辿る留学と旅のドキュメントである。

父の城戸幹は旧満州国で、満州国軍特務大佐の軍人だった城戸弥三郎の長男として中国東北部で生まれたが、終戦の混乱の中で3歳で両親と生き別れて中国人夫婦のもとで育った中国残留孤児だった。養母には大切に育てられ、当時、農村からの小学生としては珍しく、中学、高校へと進学し、17歳から肉親を捜す手紙を日本赤十字社などに送り続け、日中国交正常化前の1970年に中国から自力で帰国した。作者は1976年愛媛県生まれなので正確には残留孤児二世ではなく、普通に日本人として育てられた人間であり、父の来歴を知る前は普通に育ってきた日本の大学生だった。大学生になってから、父の生まれや育ちが中国であり、今で言う「中国残留孤児」だったことを知ったあとは、その歴史を自分の兄弟姉妹や子どもたちの世代にも伝えることが自分の使命だと考えるようになった。父が残していた大量の祖父との手紙や新聞記事の切り抜きなどから父の過去に遡る旅が始まる。

城戸幹は1941年11月、弥三郎と由紀子の長男として満州で生まれた。敗戦が明らかになった時、満州国軍の特務大佐だった父は任務のために現地に残ることになり、母は腸チフスで入院中、父は知り合いの中国人に幹と弟を預ける。移動中、ソ連軍の機銃掃射でバラバラになり、弟は死亡、中国人の男と幹は徒歩で命からがら牡丹江のほとりにある田舎の農村にたどり着いた。自分では育てられないと預けた中国人の養父と養母には「孫玉福」と命名され、大切に育てられた。養父は早くに亡くなるが養母は実の子のように可愛がられた。学校では日本人であることから「日本鬼子」イジメられたりもしたが、成績はよく多くの友人がいた。一人の友人が、中学受験を進めてくれたので受験、村からたった一人合格した。中学は牡丹江市にあるため、叔父の家に世話になる。苦労の末、高校入学も果たし、多くの友人に恵まれたが、ある同級生からは日本民族であることを取り上げてなじられる。北京大学を目指していたが、受験のためには、戸籍登録をする必要がある。民族と国籍をどうするのか、日本人として登録すると、受験結果は不合格。後で聞くと点数は合格していたのに、日本人であるために不合格と判定されたとのこと。自分は日本人としてしか生きていけないのかと、生育地の知り合いなどに聞きまわって、可能な限りの情報を収集、日本赤十字に手紙を書いて日本にいるはずの両親を探す努力を始めた。

当時の中国は、文化大革命のいわば狂熱の時代、日本人であるというのは、それだけで追求を受け、下手をすると収容所送りとなる運命が待っていた。孫玉福は、できるだけ目立たたないよう振る舞い、危険だという友人の知らせがあるとすぐさま姿をくらました。おかげで、街に荒れ狂う追求をかいくぐることができた。そのころ牡丹江に暮らす日本人高橋さんに初めて出会った。高橋さんはなににつけ、孫玉福の力になってくれる。毎月のように出していた日本赤十字からの返信があったのは、手紙を出し始めてから数年が経過した頃。父が所属していたのは満州国軍第1師団であること、大佐であったこと、当時孫玉福が着ていた服に書かれていた名前は「城XX藏」であったこと、生年は1941年頃であること、などが決め手となり、愛媛に暮らす城戸弥三郎、由紀子の長男幹(かん)であることが分かる。その後、当時の満軍関係者への手紙で、父のその後が確認され、孫玉福の身元も血液型なども確認された。しかし、文化大革命の嵐は吹き続け、帰国許可が出たのは1970年になったときだった。孫玉福は28歳になっていた。

日本への帰国を果たした孫玉福は、城戸幹として両親と再会、日本語との格闘が始まる。親戚や地元の人達にも大歓迎された幹であったが、それまで中国語しか使ってこなかった幹に日本語が話せない環境では就職も容易ではなく、残酷すぎる現実向き合った。日本語を学ぶため夜間高校に通うこと3年ほどで、生活に必要な日本語を身につけ、生涯のパートナーとも出会う。1972年には日中国交正常化があり、生まれた街、育った街に帰り、養母や友人たちとの再会も果たすことが可能となる。

第二部は幹の次女の久枝(作者)による、父の生きた証(あかし)を辿る留学、そして再訪する中国について。作者は、徳島大学在学中に中国、吉林大学に2年間留学した。そこで描かれたのは、留学した1997年ころの中国の状況と、中国語との格闘であった。留学中には、父がお世話になった養母の親族たちに会いに行った。そして「中国流」とも言える熱烈な歓迎を受ける。国慶節には泊まりに来いとのことなので再会、再び終わらない歓迎会の洗礼を受ける。祖母の墓参りへも行った。親族たちは毎回久枝を家族として迎えてくれた。父の親友たちとも会い、親友の子として大歓待してくれる。養母の親族、父の親友たち、その家族とはその後も連絡を続け、何度も会うことになる。一方、留学していた吉林大学では、歴史認識をめぐり「日本鬼子(リーベングイズ)」と同級生たちに罵られる経験をして、反日感情が現実としてそこに存在することを痛感する。

留学を終え、日本に帰ると、中国残留孤児による国家賠償訴訟の動きを知る。自分自身も残留孤児二世ではあるが、日本育ちと中国育ちでは立場が全く異なる。帰国時には熱烈歓迎してくれた日本人も、訴訟となると受け止め方は冷たいものであった。戦争があり、当人には罪はないのに中国大陸に取り残され孤児となった運命と差別や貧困などの苦労を、日本の皆さんにも是非知ってほしいし、忘れては欲しくないというのが願いである。そこで知ったのは、日本では戦争の記憶が薄れてしまっていくこと。歴史的事実を「知らない」という心の暴力を感じた。「大地の子」の放送を見ていた父の一言、「僕のときはあんなもんじゃあなかった」という一言に久枝はショックを受ける。祖父は、満州国軍の高官だった。祖父の歩んだ道を辿ると、軍人としての祖父の姿、日系軍官の苦難の歴史を知ることになる。満州国軍は日本軍人ではないとの理由で軍人恩給の対象にならないと言われたこともあったという。父の育てられた農村を訪ね、小学時代の同級生や近所の人達を尋ねると、そこには父の記憶がしっかりと人々の中に生きていることを知る。本書内容は以上。

淡々とした記述にも深い洞察が感じられる。作者の行動にもその父の苦労にも大いに心を揺り動かされ、自分の中でも記憶に残る一冊となるだろう。本作品は第39回大宅壮一ノンフィクション賞、第30回講談社ノンフィクション賞、黒田清JCJ新人賞を受賞した。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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