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意思による楽観のための読書日記

図解 東アジアの歴史 三城俊一 ***

米中関係、日韓関係、北朝鮮拉致問題、北方領土交渉などなど、いずれも歴史問題が絡んでくるので、アジアの歴史を知らずしてニュースの理解もままならないはず。特に近世、近代史をどれほど私達は理解しているだろうか。思い込みもあるかもしれないし、勘違いの可能性もある。好きと嫌いだけではなく、次々に起きる出来事の是非判断が難しいのが近隣関係。最低ラインでも理解しておきたいというのが本書の狙い。

歴史上、必ず登場するのは中華秩序と朝貢関係を結ぶ東アジア諸国の存在。中華文明の根本まで遡り、諸子百家、儒家である孔子孟子の思想から、道家の老子、莊子、墨家の墨子、兵家の孫氏、呉氏などを紹介。こうした多士済々たる諸子百家の中でも歴代王朝の国教という特別な地位を占めたのは儒家思想。隋以降取り入れられた科挙試験でも儒教の経典理解は前提知識として必要不可欠とされた。その上で、自国を世界の中心と考える中華思想は、文明力と経済力に裏打ちされながら朝鮮半島、東アジア、そして日本にも強い影響を与えた。

文字としての漢字は、日本に入りかな文字、カタカナ文字と変化しながらそのままでも取り入れられた。朝鮮半島では、ハングルとしての独自文字を作り出し、漢字との共存が続く。その他、契丹、女真、西夏文字、チュノム文字などに変化した。もう一つの文字体系であったアラム文字からは突厥、ウイグル、モンゴル、満州へと変遷。古代インドのブラフミー文字はチベット文字、パスパ文字へと変遷していく。東アジアの諸民族は日本を始めとして独自の文字を持つことで民族の独立性を保とうとした。

8-9世紀の謎の国家が渤海。高句麗が唐と新羅連合軍に滅ぼされ、その後継国家と言えるのが渤海。高句麗の残党とツングース系の靺鞨人が成立させた国家で、唐と対立しながら、日本との関係も模索。727年から919年まで34回の渤海使を日本に送り、日本からも遣渤海使が728年から811年まで13回送られた。遣新羅使は668年から836年まで27回、新羅から日本へも668年から923年までの47回新羅使が来ている。有名な遣唐使は一方通行の朝貢関係であり630年から894年までの15回である。白村江の戦いは唐にとってはなんの重要性もない出来事だったが、日本はそれ以降、対唐の防御策に追われることになる。日本は外交のバランスをこの時代結構考えていたことになる。

元寇後の日本では恩賞不足から鎌倉幕府が衰退。南北朝動乱の間に権力の空白から日本人や中国人も含めた倭寇と呼ばれた海賊が東シナ海で跳梁跋扈。明の洪武帝は倭寇対策として海禁政策として中国人の海外渡航取り締まりを実施。朝鮮半島では倭寇被害で衰退した高麗が滅亡、李成桂による李朝が誕生、ハングル文字もこの時代に生み出された。その後の秀吉による朝鮮侵略は豊臣政権崩壊だけではなく、援軍を出した明の財政悪化、朝鮮半島全土の荒廃をもたらした。17世紀になると女真族はヌルハチにより統一、マンジュと名乗り、これが満州の由来となる。二代目のホンタイジの時に清と国名を改め、外征や宦官の横暴などで弱体化していた明を征服、新たな清王朝は台湾を初めて中国王朝の領土とした。この清は300年続く間に外モンゴルからチベットを領土としていたジュンガルを滅ぼし、ウイグルも併呑。ロシアとはネルチンスク条約により国境を確定しウイグルの地を新しい土地「新疆」と名付けた。

19世紀になり、清を宗主国としていた朝鮮、日本としては朝鮮に開国を迫るため、宗主国の清との条約を締結し、朝鮮に開国を迫った。維新後の日本と清は朝鮮を挟んで睨み合う関係となり、軍事力を徐々に強化してきた日本との諍いを避けたかった清だったが、日本サイドでは長州と薩摩の勢力争いがあり、旧武士階級の維新後の状況に対する不満、強硬論が平和路線の勢力を上回り日清戦争へと進む。朝鮮半島や大陸への進出は江戸時代末攘夷論の一つの政策であり、平和路線の勢力でも、開化に時間がかかる朝鮮半島の情勢を見て、福沢諭吉のように「隣国の開明を待てない」という意見に傾いてきた。その後の日露戦争を経て、日本は朝鮮を併合する。ロシアとは満州の利権を分け合う形となったが、アメリカでは不満論が湧き上がり日本移民排斥運動、そして第二次大戦への伏線となる。日本に現在も暮らす50万人の在日コリアンの存在はこの時代に困窮した農民が日本に移民し始めたことから現在まで続く。

1912年、清は外圧を受けて辛亥革命により滅亡。その後すぐに、独立運動を率いた孫文を軍閥の袁世凱が日本に追い出し第二革命と呼ばれる。1914年には第一次大戦勃発と同時に、日本が日英同盟を理由に山東省を攻撃、21箇条の要求を突きつけ、袁世凱政権は抵抗する軍事力がなくこれを受け入れる。1916年には袁世凱が打倒され第三革命により各地に軍閥が乱立し始める。ここからはじまるのが国民党と共産党による中国国内の対立で、21箇条の要求がパリ講和会議で破棄されないのを見た中国国内では、1919年の5・4運動が始まる。これを支援したのが設立したばかりのソ連で、この社会主義に中国人は強い影響を受け始める。こうした混乱に乗じて中国の内戦に介入を深める日本に対しては、米英仏が監視を強め、日英同盟に代わる日米英仏による4カ国条約が締結された。

中国では国共合作と対立が繰り返され、北京を抑え始めたのが張作霖。満州にも進出しようとした張作霖を関東軍は爆殺。その子、張学良と結んだ蒋介石の国民政府を列強は承認したが、日本は高圧的な外交を繰り返し、国際的に孤立を深める。日本国内では第一次大戦後の特需が終わり長い不況へと進んでいた。1923年の関東大震災、1929年の世界恐慌は日本にも波及。政党政治を目指す政治家たちの欧米との協調路線は、不況脱出の具体策を見いだせず、国民の支持を失っていき、大陸に常駐する強硬派軍人の行動を抑え込むことができなくなる。こうした背景から「満蒙は日本の生命線」というキャッチフレイズがポピュリズムを進めていたマスコミにより国民に広められていく。このあたりが対中英米戦争へのポイント・オブ・ノーリターンではないか。

戦後の日韓関係の始まりは1965年の日韓基本条約締結による国交正常化で、戦後20年のこと。アメリカ統治下の朝鮮では1948年に南朝鮮で選挙により李承晩が選出されたが、1950年には朝鮮戦争が始まる。戦争を通じて共産主義の脅威を前面に打ち出した李承晩に対し、アメリカは反共陣営結束を狙って日韓国交回復を仲介するも、李承晩は国民の不満を反日感情を煽ることで躱し続けることで団結を図り、日韓国交回復交渉は不調に終わる。1952年1月には韓国漁業権を守るとして竹島を内側に含む李承晩ラインを主張、これ以来竹島を自国領とし続ける。1960年には李承晩が退陣し、朴正煕政権が誕生。国力向上のためには日本からの経済援助が必要と考え国交回復を進めた。この日韓基本条約により両国間の戦争による請求権は解決したことが合意された。慰安婦問題、歴史教科書問題が浮上したのは1980年代。朴正煕が暗殺されたのが1979年で、その後は全斗煥、そして盧泰愚政権が誕生。1991年に元慰安婦が名乗り出たことを契機に、これらの問題を日本に突きつける運動が韓国で盛り上がりを見せ、政権もこれを後押し。1992年に訪韓した宮沢首相は追加の補償はしないが謝罪はする、という立場を取る。盧泰愚政権はこれに対して慰安婦問題に適切な補償を要求、朝日新聞による虚偽の吉田証言、女子挺身隊と慰安婦を混同する報道もあり状況は混乱した。1996年には排他的経済水域を設定する必要から竹島領有問題も再燃。以降、大統領任期を5年とする韓国では、任期中に支持率が低下するとこれらの対日問題を持ち出すことで、国民の不満を日本に向けようとすることが繰り返されるようになった。

尖閣諸島は1895年に日本政府が無主地を確認し領有を宣言、沖縄県に編入した。第二次大戦後は沖縄県の一部としてアメリカの施政権下に入り、1972年に日本に返還された。1953年の人民日報には尖閣諸島は琉球諸島の一部と紹介されていたが、1968年に海底調査が行われ油田、ガス田の存在可能性が指摘されると中国政府、台湾政府が領有権を主張し始める。

本書では、こうした東アジアの歴史を図解で示し解説。時事問題理解には必須の歴史知識を提供してくれる。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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