2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見終わって、中世史の鎌倉幕府誕生前後の歴史上有名な場面にも関わらず、知らないことが多いことに気がついた。初代執権時政とその子義時、そして泰時の関係や時房の位置づけ、朝廷側から見た新参者の関東勢力に対する見方と、武力にまさる関東勢力との立場の転換、頼朝とその子達、政子と北条執権家の立場、土地の所有への執着とその安堵の力などなど。自戒するにこれは歴史を時系列に起きた出来事として理解していた認識力の限界だった。本書は、登場人物別にその来歴や業績をまとめており、加えてその時代の制度や文化を解説、一年を通してドラマを見終わった後に、その歴史の転換点をより深く三次元的に理解しておくためには有用な一冊。
鎌倉時代の歴史を記述した北条氏による歴史書が「吾妻鏡」で、13世紀末から14世紀初期にかけて編纂されたとされる。北条氏の嫡流得宗家が専制権力を行使していた時代で、北条貞時が執権、将軍は親王将軍三代目の久明で、執権としての正当性をしっかりと示しておく、ということが幕府編纂による歴史書たる「吾妻鏡」の役割だった。しかし嘘を書いてもばれるため、都合が悪いことは記述しない、という方策がとられた。初代頼朝を偉大な将軍とする一方で、二代目頼家は暗愚、三代目実朝は京風で頼りなく不吉な将軍と描くことで、頼朝の政道を正当に継承するのは北条得宗家であると強調したかった。そのため義時の子、泰時の「吾妻鏡」での評価は極めて高く、その子孫である得宗家であるので正当性を主張できる、という論理。
頼朝が死んだ1199年1月の記録はなぜか「吾妻鏡」には記述がない。1196年1月から1199年2月までの頼朝の死と頼家の鎌倉殿継承という重大事の記述がないのは不自然。吾妻鏡編纂と鎌倉幕府滅亡が重なったとする説もあるが、「頼朝将軍記」は記述があり、意図的な不記述だという。吾妻鏡には実朝暗殺後の三か月半の記述もなく、実朝暗殺に伴い、時の幕府内部の混乱や義時と政子の威信を傷つけかねない出来事を残したくないという意図が疑われる。頼朝は死ぬ前に大姫を後鳥羽天皇の入内させようと朝廷に急接近していたが源通親や丹後の局の翻弄されていた。そして大姫が急逝、妹の三幡をと考えていた時に頼朝が急死。こうした鎌倉殿にまつわる不都合な記述を残したくない、という意図からの不記述だったという推測である。
朝廷での官職と位階について、太政大臣という官職には正一位もしくは従一位という位階が相当。左大臣、右大臣、内大臣は正二位か従二位、大納言は正三位、近衛大臣は従三位など。従三位以上が公卿とされ、1190年時点で官職をもつものが28名、任官していない公卿が22名。現代であれば事務次官、局長クラス、政治家なら大臣、副大臣クラス。頼朝は公卿の一つ権大納言と右近衛大将の補任され、鎌倉に戻っても「さきの右近衛大将政所」を名乗ることができたため東国にも権威を示せたという。執権義時は相模の守で従五位下に補任されたのち、最終的には従四位下で陸奥守となる。和田義盛は六位相当の左衛門尉、大江広元は正四位下、東国武士も官職と位階を欲しがった。
ちなみに「公」と呼ばれるのは大臣で三位以上を指し、実朝は右大臣に上ったので「実朝公」、しかし頼朝は最高位が権大納言なので「頼朝卿」となる。鎌倉時代にはこの官職と官位が厳密に運用されていたため、頼朝は必ず卿と呼ばれた。時代が下るとその運用は緩やかになり、多くの歴史上の偉人に「公」をつけて呼ぶようになる。
頼朝追討の院宣は後白河法皇が義経に強要させられて発出した文書。宣旨は天皇が朝廷から発出する正式文書のことで、天皇が出すと綸旨、上皇は院宣、皇太子や三后以下の親王、内親王は令旨。以仁王の平家討伐宣旨は以仁王の令旨となる。
本書は、大河ドラマを見た後でも、もう一度楽しめる歴史の教養書である。