東京の地名では有楽町や八重洲の名前の起源は有名だが、旧江戸市街は結構東西南北に広がっている。
灌漑用水の水源地だったのが水元、明治22年に誕生した村名だが、1929年に開発された灌漑用水だったので水元と呼ばれていた。柴又の地名が最初に文書に登場するのが正倉院保管の養老2年(718年)の戸籍で嶋俣里というもの。奈良時代の島俣には42戸の家があり370名の住人がいた。小松菜の名前のもととなった小松川。鷹狩に来ていた将軍吉宗が食した菜が美味しいと「小松菜」と名付けたという。小松川は葛飾区新小岩の小松村から流れていたので小松川と呼ばれていた。巣鴨は近くに石神井川が流れていたためそれに臨んだ地域として洲処面と呼ばれた。下谷は戦国時代に、入谷は江戸時代にみられた地形から名付けられた。下谷という広域地域名の中に入谷、稲荷町、御徒町、箪笥町などがある。日暮里は江戸時代中期までは新堀と呼ばれていたが、新堀を道灌山より臨めば、春秋の景色、日の暮れるを忘れる里なり、と言われたことから。
府中は古代より武蔵の国の国府が置かれていたため、江戸時代には甲州街道の宿場町が置かれるようにもなった。深大寺は水神としてあがめられた深沙(じんじゃ)大王という鬼神に由来。小金井は1828年の新編武蔵風土記稿によれば、井戸が少ない土地が多い武蔵野台地の中で清水寺の近辺に湧き出る泉がありこれを小金井と呼んだことから。吉祥寺は明暦の大火で駒込村より移転してきた吉祥寺(きっしょうじ)から。同じく、江戸の千代田区にあった連雀の町民が移住したのが三鷹の連雀新田となった。石神井は村内にある三宝寺池より掘り出された石剣を神号とし村名とした。練馬は馬の調練場、赤土を練る練り場など諸説がある。中野は武蔵野の真ん中にある村で、中野本郷から角筈にわたる広大な原野を開拓した長者がいたので中野長者と呼ばれた。
飛鳥山は1321年、武蔵野の土豪が紀伊の飛鳥明神の分霊を祀ったことにちなむ。吉宗は江戸城で育てた桜の苗木200本を植えさせ、桜の名所として楽しめる地となる。桜は御殿山、隅田川向島桜堤、芝、上野などにも植えられた。向島は浅草から見て向こうの島からそう呼ばれた。江戸で歌舞伎が盛んになったのは、寛永元年(1624年)に猿若勘三郎が京都から下って江戸中橋で興行を始めたことから。幕末から明治にかけては江戸の芝居小屋が集まって、そこが猿若町と呼ばれる。吉原は江戸時代に日本橋近辺の葦の生える原を幕府が指定して遊郭を集約したことから葺屋町の東の土地に設置された。明暦の大火で江戸市街の整備が行われた際に、浅草千束への移転が行われ、新吉原と呼ばれた。
板橋は石神井川にかかる場所に板の橋が架かっていたことから頼朝の挙兵の時にはそう呼ばれていた。千住は1327年に荒川で千手観音が拾い上げられ寺に安置されたことから千住と呼ばれた。また中世には千葉氏の居住地であったことから、千葉市の居住地で「千住」となったという説もある。新宿は甲州街道と青梅街道の通る交通の要衝。甲州街道の第一宿は高井戸で、青梅街道は田無。しかし、江戸日本橋からはいずれも4里(16KM)もあり休憩場所が必要と、元禄11年に設けられた場所が、内藤氏の所領だったその場所。高井戸は昔からあった井戸が涸れてしまい1486年には高井戸と呼ばれていた。品川は品良き地形であり、高輪に比して品ケ輪と呼ばれたという説、目黒川の古名が下無し川であり、それが品川と変化したという説もある。日本橋はすべての街道の起点であり、日本中の人が集まる場所に架けられた橋であり日本橋となる。
有名どころでは、大名小路のあった丸の内、本丸正面の大手町、江戸城の内郭北の丸、門番がいた見附、馬を学んだ高田馬場、大急ぎで作られたお台場、織田有楽斎の有楽町、ヤンヨーステンに与えられた八重洲、神田用水のお茶の水、水戸黄門が完成させた後楽園、番組が詰めていた番町、堀の長さに由来する八丁堀、富岡八幡宮の門前仲町、五不動の一つ目黒、銀を鋳造した銀座、札差の蔵がある蔵前、二つの国を結んだ両国橋、博労がいた町馬喰町、浪速の佃島の漁師たちが住吉神社を連れてきた佃島、材木商が集う牙、埋め立て地だった築地、ゴミ捨て場だった永代。本書内容は以上。
町村合併が進んでも古い地名は残したいもの。