古代ヤマト政権は、古代には藤原京あたりに存在したと思われる奈良湖が流入してくる土砂と埋め立てで田畑を開墾した。湖のありかは古代の豪族たちの勢力圏地図を見るとそこに大きな空白地域があることから浮かび上がってくる。あとから勢力を増した蘇我氏の勢力地域が湖の岸辺に広がることまでうかがえる。古代の道である山野辺の道が最初にできた藤原京と奈良をつなぐ道であり湖を迂回するように作られ、その後、上つ道、中つ道、下つ道と東から西へと湖埋め立てが進むにつれて作られたことを思わせる。朝鮮半島との交流は瀬戸内海、難波、大和川経由で続いていたが、その後、都建設のために伐採されてはげ山になった周囲の山、洪水に見舞われた奈良盆地では環境悪化が続いていたはずである。恭仁京などへの遷都の努力は実を結ばなかった。
京都の町は淀川で瀬戸内海とつながり、琵琶湖経由では若狭湾経由での半島への経路が期待された。藤原、奈良での環境悪化と木材伐採の反省から、長岡京、平安京の都の周囲への環境保全が意識されたはずである。京の町の地下水もそこに暮らす人たちへの僥倖となった。京の地下には琵琶湖の保水力と同等程度の地下水脈がある。政権担当者にとっては治水と浄水確保は京の町での重要な施策となる。水運経路は都を中心都市、瀬戸内海から諏訪湖にまで進出していた。平家を支えた日宋貿易を支えたのは西国水軍であり、源氏を救ったの野も東国を支持する水軍であった。
戦国時代甲府の覇者であった武田信玄が得意としたのは治水事業であり、中国の治水技術を学んだと思われる。濃尾の輪中も室町・戦国時代には木曽・長良・揖斐の三川が平野下流部では湿地帯であった平野での生き残りのための知恵であった。輪中で囲まれた中州は城としての機能も持ち、長島の一向一揆に信長がせん滅にまで手を焼いたのもその防御力のおかげであった。信長は、岐阜から京に向かって天下統一を図る際に、琵琶湖を活用することを考えた。自分は琵琶湖東岸に安土城を築き、北部東岸長浜には秀吉、南部西岸坂本には光秀、北部西岸の大溝城には津田信澄を置いた。琵琶湖を制圧するネットワークを持ったことで京ににらみを利かせた。
秀吉は京に聚楽第、伏見、そして上町台地の北端の本願寺跡地に大阪城を築き、瀬戸内の要衝広島に毛利輝元が太田川下流域だった川の中州に広島城を築かせた。瀬戸内海にはそこを通行する西国大名、南蛮船がおり、京、大坂、瀬戸内海という要所を水路でつなぎ、その先にある半島と大陸進出という安全保障と商業推進を進める大構想を描いた。
家康による江戸の町整備においても治水と浄水確保は最重要課題だった。利根川と荒川の付け替え、神田上水、玉川上水の建設、多目的ダムだった江戸城脇の溜池建設、木樋による江戸市内浄水路整備、排水路整備、濃尾三川を整備させられた薩摩藩とその成果である宝暦治水と枚挙にいとまがない。京都の町では明治維新以降の町おこしとして、琵琶湖疎水が建設、浄水と発電が行われ、日本初の市内電車である京都市電が建設された。
水が豊富なのが日本列島であり、治水と同時に天然資源としてのエネルギー源として活用することで大きな可能性がある。本書内容は以上。