〈子供等(ら)は/蕾(つぼみ)のままに/散りゆけり/嗚呼(ああ)満開の/桜に思う〉。預かった大切な子どもたちを助けられず、自分だけ生き残ってしまった自責の念。それは生涯消えませんでした。
沖縄戦前夜の1944年8月22日、学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦に撃沈されました。当時、引率教諭だった新崎美津子さんは海に投げ出され、4日間漂流した後に救助されました。しかし、同船していた800人をこす児童の大半は亡くなり、妹も犠牲に。
家族にも多くを語らなかったつらい体験でしたが、2011年に90歳で他界する数年前から地域で話すようになったといいます。苦しみ続けながら最後は語り部となった母の思い。それを娘の上野和子さんが受け継ぎ、このほど1冊の本にまとめました。
書名『蕾のままに散りゆけり』(悠人書院)は冒頭の母の短歌から。上野さんは母の足跡をたどりながら自身も語り部として戦争の実相と平和を願う気持ちを訴えています。
対馬丸が沈没してからきょうで80年。那覇市の記念館では遺族の提供で新たに8人の遺影が展示されました。いまだ、戦争の傷痕がうずく沖縄。しかし米軍の新基地建設は貴重な大浦湾を壊す工事に着手。沖縄本島をふくむ南西諸島の軍事要塞(ようさい)化も推し進められています。
助けてー、怖いよー、お母さーん…。そう叫びながら、暗い海に沈んでいった子どもたち。その姿をなきものとするような日米両政府の動き。80年を迎えたいまも、この国の戦争との向きあい方が問われています。
沖縄戦前夜の1944年8月22日、学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦に撃沈されました。当時、引率教諭だった新崎美津子さんは海に投げ出され、4日間漂流した後に救助されました。しかし、同船していた800人をこす児童の大半は亡くなり、妹も犠牲に。
家族にも多くを語らなかったつらい体験でしたが、2011年に90歳で他界する数年前から地域で話すようになったといいます。苦しみ続けながら最後は語り部となった母の思い。それを娘の上野和子さんが受け継ぎ、このほど1冊の本にまとめました。
書名『蕾のままに散りゆけり』(悠人書院)は冒頭の母の短歌から。上野さんは母の足跡をたどりながら自身も語り部として戦争の実相と平和を願う気持ちを訴えています。
対馬丸が沈没してからきょうで80年。那覇市の記念館では遺族の提供で新たに8人の遺影が展示されました。いまだ、戦争の傷痕がうずく沖縄。しかし米軍の新基地建設は貴重な大浦湾を壊す工事に着手。沖縄本島をふくむ南西諸島の軍事要塞(ようさい)化も推し進められています。
助けてー、怖いよー、お母さーん…。そう叫びながら、暗い海に沈んでいった子どもたち。その姿をなきものとするような日米両政府の動き。80年を迎えたいまも、この国の戦争との向きあい方が問われています。
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