暗い海に投げ出され何日もいかだで漂流したこと。ようやく生還したのもつかの間、目の前で戦争が始まり、山の奥へ奥へと逃げまわった日々…。
先月末に88歳で亡くなった平良啓子(たいら・けいこ)さんは「対馬丸」と沖縄戦の生き証人でした。1944年8月22日、国の疎開方針によって沖縄から長崎に向かっていた船が米潜水艦の魚雷をうけて沈没。乗船していた当時9歳の啓子さんは6日間も海を漂い、流れ着いた無人島で助けられました。
半年後、故郷に帰りましたが、こんどは地上戦に巻き込まれ、避難生活を余儀なくされました。幼い心と体に刻み込まれた命の大切さ。自身が皇民化教育を徹底されたことから、戦後は平和をつくる教育をめざして小学校教諭を長く務めました。
語り部として県の内外を飛び回り、改憲や辺野古の米軍基地建設にも反対の声をあげてきました。つらい記憶をたどり、命あるかぎり語り継ぐと奮い立たせてきたのは、二度と戦争を起こさせないという固い意志でした。
軍拡や軍事的枠組みづくりへと、日本の政権がふたたび戦争への道に踏み出そうとしているいま、いやというほど悲惨な体験をあじわった平良さんらの訴えは、さらに重くひびきます。
およそ1500人が犠牲となった対馬丸の撃沈から、きょうで79年。平良さんは生前、大勢の子どもたちの遺影を前にすると、一人ひとりから呼びかけられているような気がすると話していました。あなたは生きている。平和のためにがんばっているの? 語れ、語れと。
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