『夜間飛行』

また靴を履いて出かけるのは何故だろう
未開の地なんて、もう何処にもないのに

『どこにでもあるどこかになる前に。~富山見聞逡巡記~』 藤井聡子

2019-11-24 | Books(本):愛すべき活字

『どこにでもあるどこかになる前に。~富山見聞逡巡記~』
藤井聡子(日:1979-)
2019年・里山社

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かたや東京の冬はというと、ブルーハワイをバケツでぶっかけたような青空ばかりで、私はその下を歩くことが苦痛でならなかった。

北陸特有のどんよりした気候で、なおかつ娯楽も少ない富山という地は、転勤者、移住者のなかには、自律神経を乱しがちになる人もいるという厄介な場所であるらしかった。

しかし、私にしてみれば、東京の冬のドピーカンのほうが居心地が悪かった。

羞恥心なきまでに開放的な青空、ダイレクトに突き刺さる日差し。

「なぜにそれほど、スッポンポンなまでに青いんだバカ野郎。ひた隠せ!」

と、腹が立った。


後になって思えば、結婚もせず、未だ親の庇護を受けて東京でモラトリアムを謳歌していることが、自白のもとに晒されるようで不快だったのかもしれない。

しかし、私は何かしら大物になるという、捉えどころのない野望を抱えて東京に出てきたのだ。

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東京の冬の空は意外と澄んでいて青い。

と、たまに思ったりするが、それを指摘した文章はあまり見かけないので「おお」と思った。


この文書の前には、筆者が帰郷する特急の車窓から陰鬱な冬の日本海を眺め、

「外では波しぶきの不穏な重低音が轟いているに違いなく、海には決して近づきたくはなかったが、遠巻きに見ている分には心が安らいだ」

と感じる描写がある。


ここは、筆者の藤井さんにとっての『富山』という故郷の存在が端的に表されていてとっても巧い。

つまり、どんよりしていて、海面も海底も大荒れに荒れている事も知っていて、決して深く入り込みたくないのに、同時に自分にとって心落ち着く場所でもあるという、本書でずっと追及される矛盾のことだ。

この描写は、富山をよく知らない読者にも、荒れている海や街の景色を自身は1mmも濡れない安全な場所から眺めている時の、熱いお茶でも飲みたくなるようなあの静けさを思い起こさせる。

だから「この人が今から綴っていくことに、たぶん自分は共感できるだろうな」と、冒頭のこの時点でなんとなく予期してしまう。

イイ映画を見ていて、冒頭でもう主人公の目を通して景色を見ているあの自然な感じ。


出版元である里山社のHPによると、本書は

『地方都市に住む人、出た人、愛する人へ捧ぐ、Uターン者による”第二の青春”エッセイ』

との事。


でも、この力作をエッセイと呼ぶのはかなりの謙遜という気がする。

この本は筆者の第二の青春を綴る自叙伝、見果てぬ夢を追ってモガく同志たちへのエール、やがては消えていく時代に忘れられた場所や人たちへの愛を込めた哀歌、そして志半ばで世を去った戦友へのラブレター等などの具材が、闇鍋のごとく煮詰められた一冊だ。


本書を最初に手に取った時、中年期に入った主人公がこじらせちゃった青春時代の夢にケジメをつけていく物語なのだろうと思っていた。

それは勿論大きなテーマだが、本書のなかで藤井さんはあまりに多くのものと対峙し、もがきながら受け入れたり乗り越えたりしていく。


大都市でも小さな町でもいい。

生きていくというのは、なんと大変で楽しいのだろう。

人との出会いは何と愛しくかけがえのないものだろう。


しょーもない事でションボリしたりすると、こんな大事な事もすぐに忘れてしまう。

せいぜい、この本を部屋の本棚のいい場所にしまっておこう。

ふとした時に思い出せるようないい場所に。


■おまけ

この秀逸な装丁。

カバーを外すと富山の人と町の写真がツルツルな紙質でプリントされているのが心憎い。

そして、じっと見ていると、この単行本自体が特急電車で食べる駅弁に思えてきた。

駅弁のフタを開ける時ってドキドキしますよね、年齢に関係なく。


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どこにでもあるどこかになる前に。〜富山見聞逡巡記〜
藤井 聡子
里山社

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