つながる つなげる

✨🌈I can fly with you🌈✨

入社試験

2023-03-25 12:00:00 | 日記
WBC終わっちゃいましたね〜

今回もいろんなドラマが生まれましたが、
総じて印象的だったのは、侍JAPANの皆さんが、少年野球をしているかの様に真剣に楽しんでいる様子でした。

野球って楽しいんだな、と画面を通して沢山伝わってきて、
これも、メンバーの持つパーソナリティーや、チームワークの良さから来るものだと思うと、
ただ野球は面白い、野球やろうよ!という子供達へのメッセージだけではなく、
チームや組織でも目標を達成する為に必要な事は何か?を体現してくれた気がします。

それにしても、、、
沢山の努力の積み重ねとは言え、
好きな事を仕事にできている事は、なんとも素敵な生き方だと思います。

そんな私の職業はと言うと、、、
しがない会社員です。

ちょうど30年前の今日が入社式でした。

転職や、フリーランスが当たり前の時代となった今、
終身雇用はもはや死語となりつつありますが、
なんとか30年頑張りました。

正確には、3回産休・育休を取得したので、途中抜けていますが…。

今日はそんな私の入社試験のお話です。

1993年。バブル崩壊後の就職氷河期。

なりたい職業を選べる時代ではなく、
就職できるか否かという厳しい現実と向き合わなければならない、それくらい求人票の数はグッと減っていました。

当時学生課の壁に張り出される求人票は、
学校推薦と、自由応募この2つのパターンが主で、
大手と言われるところや、地元の企業は学校推薦にて、
"若干名"の募集枠に対して、学内応募が殺到する…そんな状況でした。

私たち、第二次ベビーブーム世代です。
ただでさえ人口が多いのに、学内の推薦枠を突破するだけでかなりな倍率です。

しかもそれは入社試験の権利を得ただけで、更にその先から本格的なふるいにかけられるのです。

学生時代、学祭の実行委員をしていたので、学生課は顔馴染みでした。

貼り出される学校推薦の求人票には、ほぼほぼ名前を書いてエントリーしていたにもかかわらず、決定者一覧になかなか名前が載りません。

学生課の課長に詰め寄ります。

「私結構いろいろ頑張ったつもりですけど?
なんで落とされるんですか?どこが足りないんですか?」

「まぁ待て待て、お前にはちゃんと合ったところが来るから」

一体どこやねん。。。
当てのない学校推薦を期待しても仕方ない、と自由応募の求人票を見て同時進行で就活していました。

すると、ようやく学校推薦の選定結果に名前が!

やったー!!と喜ぶのも束の間、そこには50名程名前があり…
募集は若干名です。。。

すぐさまその会社の過去の入試問題や面接情報のファイルに目を通す。

ふむふむ。一般常識のペーパーテストが一次選考で、二次選考が小論文と面接ね。

ん?小論文…珍しいな…

小論文のお題についても毎年一次試験の後に通達されていて、事前にある程度考える余地あり。

とりあえず当たって砕けろ、の勢いで一次試験に臨みます。

会議室に集められた学生、ざっと100名ほど。
採用される若干名って、何人くらいなんだろう…

一次試験、一般常識のペーパーテスト!
と思いきや、試験問題を見ると、ガッツリ大学入試レベルの国数英。
他の会社の試験とはまるで違っていました。

えっ?今までと違うやーーーん!!
簡単な一般常識じゃないの??

ところが、、です。
実は私、塾の先生のアルバイトしてたんです。
家庭教師のアルバイトも。
あ、ちなみに居酒屋のバイトもガソリンスタンドのバイトも経験ありです

と言う事で、数学の公式や英語の構文や単語がまだ比較的身近にあったので、難しいなと感じたものの、手応えを感じつつ…。

試験が終わると、皆一斉に「去年と違うやーん!」の大合唱です。

加えて、
「毎年、二次選考の小論文のテーマを事前にお知らせしていましたが、今年は当日お伝えします」

「今までと違うやーん!!」再び。

まぁ、ふるいにかけることが目的だとして、
1番体のいい理由になるべく試験問題だったな、と家に帰ると…
その日の夕方、一次選考通過の連絡が来ました。

と、同時に自由応募で就活していた興味のある会社からも、最終選考の日程連絡がありました。

学校推薦は受かれば断れない。
どちらも最終的に受かるかわからない…
迷いました。

先に試験日となったのは、学内推薦の二次選考。
集まったのは、8名…
運良く残れて良かった… 

そして、発表された小論文のテーマは、
「最近気になっている社会問題、社会的事象に対してその詳細とあなたの意見を述べよ」
というものでした。

げっ

当時社会問題として、取り上げられていたもの…
バブル崩壊後の不況、高齢化社会、カンボジアの地雷、オゾン層破壊による温暖化等々、、、思いつくのはそれくらいでした。

しかし、その詳細となると、かなり浅い知識。かつ、確固たる意見を持っているかと言えば、そうでもなく。

試験開始からしばらくは何も書けずにあれやこれや考えていました。
私が詳細を述べられるもの………

あれしかない!!!

閃いて、一気に書き上げ、良い感じに落とし所を見つけ提出。

午後の面接に備えて、居合わせた同志達とランチに行き、
「ここのランチ美味しいねー♪ 受かったらまたみんなで食べに来ようね〜」
なんて呑気に話しながら、無事面接まで終了して帰宅。

前回と同じ流れであれば、今日中に連絡が来る…はず。

そして夕方、電話が鳴りました。

「採用です。内定式については後日書面でご連絡しますので、残りの学生生活、しっかり励んでください」

あ、受かっちゃった…
と同時に、2日後に予定されていた自由応募の会社に辞退の連絡を入れねば…

ここが一つの大きな人生の選択となりましたが、
内定式に出席してみると、事務職で採用されたのは私1人。
欠員が1名出たので最初から1名の採用だったらしく、これも何かのご縁ですね。

内定式後の懇親会に出席した際、
支店長が「君の論文、面白かったよ」と言ってくれました。

実は、大学受験の二次対策でひたすら書きまくった小論文。
少しだけ自信がありました。 

でも何より、その論文を書き上げる題材となってくれた方のおかげです

そうです。
時は1992年、夏。
松井秀喜5打席連続敬遠。
甲子園がゴジラで沸いたあの年です。

以前blogでも書いていましたが、私は新聞っ子でした。
今みたいにネットニュースがある訳でもなく、その日見聞きしたテレビのニュースはその時の情報、記憶のみ。
新聞は保存できるものの当時切り抜きもしていなかったので、読んだ記憶頼み。

連日報道されるゴジラ松井の評判と評価。
そして迎えた高知代表明徳義塾との対戦。
5打席連続敬遠した結果、明徳義塾へのバッシングは凄まじいものでした。

星稜対明徳義塾の18才の高校生の…シンプルな試合ではなくなっていました。
その状況を新聞で興味深く読んでいた私は、高知からの応援バスですら、ガラ空きになってしまった事等もふまえ、
マスメディアの役割とは?という論点で展開し、正しく報道する事の重要性について書き上げました。

今回のWBCの最終回、
大谷選手が、チームメイトのトラウト選手に渾身の一球を放ったラストシーン、誰もが心から拍手を送ったのではないかと思います。

野球選手なら投手もバッターも勝負したいはずです。挑戦したいはずです。
そこに伴う"代表"という大きな看板。

代表とはいえ、そこの責任は問わず、
思う存分楽しんで、応援して、試合を満喫する事が良い結果につながる気がします。
W杯しかり、WBCしかり。

といったところで、仕事も楽しんで満喫できたら良い成果を出せると信じて、31年目も頑張ります。

大学受験、失敗したと思っていたら、
入社試験で活きてくるなんて、、、
人生無駄な事はないんですね。
子供達にも教訓として伝えると共に、松井秀喜さんのおかげで生活できているのよ〜と。

そして今日もセンバツ野球の全力プレーを応援したいと思います。

〜つながる つなげる〜

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅立ち

2023-03-21 13:35:00 | 日記

4年前の春、我が家は4世帯へと分散することになりました。

当時大学受験生だった次男くんは、年内に関東へ大学進学が決まり、いち早く東京での住まいも決まっていたので、高校3年の3学期は高校の承諾を得て、自動車学校とアルバイトに明け暮れていました。

引っ越しの荷造りしなさいよ!と言ってものらりくらり。

部屋は相変わらず散らかしっぱなしで、こんな風に小言を言うのもあと僅かかな、、、

と思いきや、感傷に浸る暇もないくらい、私は私で大阪の住まいを決めるために現地に赴いたり、

長男の引っ越し先の準備や各自の荷造りと超バタバタした日々を過ごしていました。

旅立ちまであと数日となった頃、

「引っ越しはお母さん立ち会えないし、手伝いもいないから一人でなんとか対応頑張ってね。一人で大丈夫よね?」

「うん。なんとかなるやろ」

しっかり者の次男くんだから任せられるとはいえ、自分が18歳の時に、知らない土地で初めての1人暮らしを引越しから1人で対応って、なかなかハードルの高いものだった気がします。


「それから、東京に発つ日の見送りのことなんだけど・・・」

「あ、同じ大学に行く友達と一緒やから見送りは大丈夫!」

「あら、そうなん?」

 

娘のあーちゃんが我が家から旅立つ時は号泣でした。

長男が飛行機に乗って大学受験に行く時ですら、旅立ちを見送る母の気持ちでメソメソしていました。

今生の別れかのような気落ちにさせられてしまう、子供の旅立ち。

次男くんの場合は、「友達と行くから、、」とあっさり見送りを断られ、メソメソの辛さは無いものの、あまりにあっさり過ぎて拍子抜け。


そして迎えた旅立ち当日の朝。

いつものように、家族の中で一番先に家を出る私は、出勤の準備をして次男の部屋を覗く。

飛行機の時間まで余裕があるとみて、まだ夢の中の次男くん。

もう、、、これから別々に生活することになるのに・・・

「次男くん!お母さん仕事行くよ!?ちゃんと起きてね。飛行機遅れないようにするのよ!っていうか、この部屋の散らかり様は何なの?? ペットボトルも捨てなさいって言ったでしょ!!」

最後の最後まで、小言です。

やんわりだった口調も、だんだん怒りモードに変わっていきます。

言いたいことは山ほどあったけれど、仕事に間に合うか間に合わないかギリギリのタイムリミットで、

じゃあね!行くからね!と一方的に言い放って、、、

せめて顔くらいちゃんと見せなさいよっ

悶々としながら出社し、

そろそろ搭乗する頃かな~とオフィスの窓越しから見える空に目を向け、

東京で一人で大丈夫かしら・・・

頑張ってもらうしかないのだけど…


その時、スマホのライン通知が入りました。

おっ!?次男くんの行ってきます挨拶かな?すぐさまラインを開いてみると・・・

高校の部活のママ友から

「沢山の友達が来ていて賑やかでした。次男くんいってらっしゃーい!」



 

ええええーーーーっ

こりゃ私に見送りに来てほしくないわけだ。。。

でも思いがけず、出発の様子を知ることができ、明るく元気に行ってきます!そんな雰囲気の写真に、

お母さんも頑張れよ!そう励まされている気がして、へこたれている場合じゃないなと。

送られてきた数枚の写真をしみじみと眺め、再び空を見上げると、

先程よりさらに澄みきった鮮やかな青空が広がっていました。


その夜、仕事から帰ってきて、旅立ってしまった次男の部屋に入ってみると、

片づけなさい!と叱った部屋は、すっかり綺麗になっていて、

ベットの上に何やら置いてある。

 

「お母さんへ」

 

そこには、アルバイト代で購入したであろう、私宛のプレゼントと小さなメモが。


あの子ったら…

朝叱り飛ばしたのが最後だったのに…

ちゃんとした見送り出来なかったのに…

私の方が全然未熟じゃん。。。

1人また1人と私の元を旅立って行く…


しばらく次男くんの部屋でしんみりしたところで、よし!切り替えて私も頑張るぞ!!

プレゼントされた鞄は、勿体なくて、4年経った今も当時のまま。



今年はお花見のお供に使わせてもらおうかしら。。。 


さーくらさいたら一年生♪

ひとりで行けるかな♪

となりにすわる子いい子かな♪

ともだちになれるかな♪

だれでもさいしょは一年生♪

ドキドキするけど、ドーンといけ〜♪

ドッキドキドン一年生♪

ドッキドキドン一年生♪

(ひらけポンキッキ 『ドキドキドン! いちねんせい』より)


この春社会人一年生となる次男くん、

いろんな一年生の皆さん、

ドキドキするけどドーンと行きましょう!





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4世帯

2023-03-12 12:17:00 | シングルマザー
子供達のいる川崎から、1人で住む大阪に戻ってくると、
大体、翌日は、"つまらないなぁ"という虚しさで、ボーッと過ごして1日が終わります。

家族と過ごしていれば、誰かしら何かしら会話をし、家事も、忙しいながら"生活している感"があって、それが私の日常だったのに。。。

大阪に異動と言われた時は、
一人暮らしの本質をまだわかっておらず、
やったー🙌 あんなに欲しかった自分の自由時間がこんなに早く訪れるなんて!と嬉々としていました。

令和元年5月1日、
ちょうど元号が変わる歴史的な日に、大阪府民となりました。

辞令が出たのはちょうど4年前の春。

早速家族会議です。

その年の4月から次男くん関東の大学進学の為、引越し準備をしていました。
あーちゃんは遠く寮生活を送っていて、
高校2年生になる年でした。

この時点で既に3世帯になる事は、皆認識済みです。

が、そこに加わった私の転勤。
なんとなく、異動の匂いは察知していたので、その年のお正月に、異動になるかもしれないから、その心積りでいてねという話は既に家族には共有していました。

でも、こんなに何もかもいっぺんに来なくても。。。

幸い、次男くんは年内に進学先が決まった事もあり、早々に物件の契約を済ませていた為、住まいは確保済み。

さて、自宅をどうするか。
長男が1人で住むにはコストがかかり過ぎる。。。
長男は大学卒業まで残すところあと1年。
そして、その時既に卒業後東京に行く事が決まっていました。

愛犬達はどうするか。

大阪の住まいはどうするか。

1ヶ月でめちゃくちゃ多くの決断をしなければならない…という事で、
迷う暇なんてないわっとばかりに直感で?バッサンバッサン決めまくりました。

まずは自宅です。
まだこれからガッツリ学費がかかる数年間。
賃貸の為にリフォームする余裕はありません。
離婚の時、あんなに揉めて奪い返した自宅を、
子供達の幼かった頃の思い出がたくさん詰まった自宅を、、
売却する事にしました。

これが買った時より若干高く売却できたので、ローンを返済し、残りは私立大2人の学費に充てる事ができたので、なんともはやです。

愛犬達は、実家の父が可愛がってくれていたので、快く引き受けてくれましたが、
離れる私たち家族の方がなかなか踏ん切りがつかず…

長男には大学近くの物件探しを指示し、

私は家族4人分の家財一式と、
買って1年目の車の駐車場と、
アップライトピアノがおける物件を探す。。。

そして、次男くんの引越しの手配、
長男、私の引越しの手配。キッチン雑貨等、家にある物を3箇所分に分けて、足りない物をリストアップ。どれだけ百均に通ったことか…
1ヶ月でこの準備&実行はなかなかハードでした。

私の引越し先を決めるのに、1番ネックとなった事が、
まさかのアップライトピアノでした。

えー、そうなのー?って感じで、
アップライトピアノがおける物件となると、
極端に数が減り、且つ、築年数の古い物件がほとんどでした。

ピアノとエレクトーン…2台は無理か…
社会人になってやっと手に入れたエレクトーンも泣く泣く手放し、

やっと見つかった物件。
しかし、入居できるのは5月から、、

4月いっぱいはレオパレスの物件にお世話になり、
5月1日、元号が変わるその日から、大阪に引越す事になりました。

4人家族、4府県に4世帯です。
えっと、私シングルマザーです。 
4世帯は大変なんだぞと言っていた父と並びました。

かくして、あーちゃんに会いに行こうと思ったら、新幹線で福岡へ。そこから車を借りて300キロ走行。移動距離約800キロの往復を土日で決行。だいたい1回/2ヶ月のペースで2年間。
これ、ほんと私よく頑張ったと思います。

翌年には長男大学卒業し、関東へ。
更にその翌年にはあーちゃんも大学進学で関東へ。

あーちゃんの場合は、親元からの通学ではない場合、2年生までは寮に入る事が部活生の条件となっていました。3年次には退寮せねばならなかったので、

1年間入寮し、2年次に事情を説明して退寮、
川崎に3人とも引越しをして、1箇所に住んでもらうようにしました。

3人で暮らす事、よく子供達が承知したね、と言われる事がありますが、
2011年のアパート暮らしの経験や、私の経済状況を見て、子供達で判断してくれたのだと思います。

世間では、親ガチャなんて言う言葉が生まれ、えっ?親のせいかい?とビックリしましたが、"置かれた場所で咲きなさい"という本もありました。

人生をどう解釈するかは人それぞれですが、
世界にひとつだけの花になれるように、
太陽の方向を向いて頑張るのみです。


自宅のガーデニングもいつかまた楽しめるように。。。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アパート暮らし2

2023-03-11 12:00:00 | シングルマザー
日本の離婚において、
88%が協議離婚、9.6%が調停離婚、
そして、2.4%が裁判離婚という比率になっているそうです。

自分たちの意志で結婚しておきながら、
話し合いもまともにできず、
調停員の力を借りても話がまとまらず、
裁判官に委ねなきゃ離婚できなかった私たち。

元夫は最初から「俺は絶対離婚しない」の一点張りでした。

家族を愛していたから、という訳ではなくて、
なぜ俺様がそんな目に遭わなきゃいけないのか、
なぜ俺様が協力しないといけないのか、
そんなスタンスだったので、
最初に話をした時も、聞く耳持たず、キレられて終わり、
仕方なく、しばらく家庭内別居を続けていました。

非を認めないどころか、何が非かも理解できていないので、裁判になる事は容易に想像できたのに、厄介なのが調停です。

離婚等家裁で裁判をする場合、
調停前置主義なるものが、法律で決められています。

必ず調停という段階を踏んで、もう一度第三者(調停員)を間に入れて話し合いましょう、というやつです。

例外もあるようですが、本当に例外です。

前述の通り、我が家は話し合いが話し合いにならないので、別居の提案も即却下。

相手と同居していながら、調停を申し立てしなければならない状況。
顔を合わせずに話し合いできるのが調停なのに、調停後、家に帰って顔を合わせなきゃいけないなんて、何とも不可思議な状態。。。

それゆえに、私は何から始めた方がいいのか、、、相談窓口に連絡してアドバイスを求めたりもしました。

子供達も私も、これ以上一緒に住むのは限界と感じていたので、家を出るのが先か、調停が先かは、ある意味"かけ"でした。

どうか、アパートに引っ越してから期日が決まりますように…


幸い期日は引越し後でしたが、
残念ながら調停の呼出状が先に届いてしまいました。。。

自分の分はそそくさと収め、
テーブルの上に一通。

いろいろと相手の出方をシミュレーションしてみる…

激昂することは目に見えているので、対策法をあれこれ考え…

そして…帰ってきた…

「なんやこれ」

「…見ての通りです」

「何やこれ!!ふざけやがって!俺は出らんからなっ」

その後、まぁ悪態つかれまくり、
不機嫌さを全面に出して、最高裁でも何でもやれや!俺は無視してやる!!と吠えまくっている。

どの段階で弁護士に依頼するか、、、
これから先の生活を考えると、極力出費は抑えたいので、できるところまで1人でやろうと思ってましたが、この辺りが限界でした。

そして家を出て…1回目の調停の段階で弁護士に依頼。

直接やりとりするストレスが無くなるだけでも有り難かったです。

家を出た私たちに対して怒りを露わにする元夫。
当然のことながら、私たちの要求は全て即却下。
思い通りにさせる訳ないやろと言わんばかりの措置が次々と起こります。

元夫は住宅ローンが組めなかったので、
ローンを組んだのは私。
控除を受けるために共有名義にしていた事、これが一番ネックとなってしまいました。

子供達が不利にならない方法で…と思って行動していましたが、身の安全の確保の方が優先でしたので、私たちが家を出るのは仕方なかった…

子供達のために家を代わって欲しい。

何度訴えても、"子供達のために"というキーワードには何も響かない人で、
基準は「お前らの思い通りにはさせない」にて、元夫は共有名義である事をいいことに、私たちが家を出てから離婚が決まるまで、広い一軒家に居座り続けました。

当時はまだ固定電話が連絡網に載る時代でしたし、いろんな連絡先にも固定電話を登録していました。

学校や部活の連絡が途絶えてしまう。

回覧板も我が家で遅滞する。

私がせっせと草むしりして手入れしていた庭は荒れ放題。

そして子供達はピアノの練習も出来なくなって…
あーちゃん、アパートで紙の鍵盤で練習していました。まるで大映ドラマのキョンキョン状態です…(薄汚ねぇシンデレラ…わかりますかね?)

困っている、と訴えれば訴えるほど、元夫は勝手に出て行ったのはお前らだと高笑いです。

何より、子供達は、お友達と一緒に学校から帰りながら、自宅を通り越して、今はアパートに住んでいるという事をコッソリ伝えなければならず、

「えっ?でもお父さんは住んでるよね?」

と言われてしまう事実。

想像力を働かせればわかる事をも、元夫にすれば「俺様の知ったこっちゃない」です。

アパート暮らしにおいても、これまでと勝手が違う分、いろんな支障が出ていました。

元夫が陣取る自宅から裏通の入り込んだところに借りたアパート。
実は自宅から比較的近くで、バレる可能性大だったのですが、
意外と灯台下暗しで、奥まっていたのでほとんど元夫が通らない道。

お友達も近くにいるし、ここなら大丈夫と思って引っ越してみると、、、

なんと、、道を挟んで、、校区外でした

だって〜道の向こうにお友達の家あるからてっきり。。。
その道こそが境界だったらしいです。

とはいえ、学校には事情を伝えていたので、道一本くらい大丈夫です!という温かい対応に感謝です。

暫定の住まいですから。
絶対、自宅取り返しますから…。


育ち盛りの子供達の食材を入れるには小さすぎる冷蔵庫。
ほぼ毎日買い物に行き、その日の分を確保する。
特に飲み物…夏に欠かせない麦茶と氷を冷やせないのは困りました。
学校、部活、少年野球と大量の麦茶消費量です。朝から子供達に"冷たい"麦茶を買いにコンビニに走ってもらうこともしばしば。

トースターが無いのでガスレンジのグリルで火加減見ながら食パンを焼く事も子供達上手になりました。

勝手が違う電子レンジで煙をモクモク発生させてしまい、火災報知器が鳴った事もありました。

ハウスダストアレルギー持ちの私と次男は喘息持ちだったので、布団の上げ下げ時にくしゃみ連発。
発作が起こらないように気をつけてはいるものの、やはり掃除機が無いと辛いわ、と
引っ越して2週間ほど経った頃、元夫が居ない隙を見て掃除機他必要な子供達の物を持ち出しました。

いつまでこんな生活続くんだろう。
皆がストレスを感じ始めてていた頃、
忘れもしない、あの日。
2011年3月11日 東日本大震災 地震発生。

会社でその一報を知った私は、単身赴任の社員の人にご家族の安否確認を聞いたり、その時はまだ被害の大きさが伝わっていませんでした。

福岡に住んでいる私たちにとっては、報道で知る状況が全てです。

関東に住む兄一家は大丈夫か?
親戚は大丈夫か?
皆がどうにか安否確認したくてその方法を必死に模索していたあの日…

アパートに帰り、ニュースを見てその光景に息を飲む。

次第に明らかになっていく被害状況。

翌土曜日はいろんな行事が中止となり小さなアパートの小さなテレビで、子供達とその光景を見つめながら、

「アパート暮らしはしんどいと思ってたけど、こんなのしんどいうちに入らないね。
もっとしんどい人沢山いるよ。これぐらいのことで根をあげてちゃいけないね。
この光景を絶対忘れちゃダメよ。」

忘れてはいけないと思い、当時購入した書籍



自宅がありながら、アパート暮らしを余儀なくされた子供達。
その稀有な経験をした2011年。
毎年3月11日黙祷を捧げながら、一生忘れる事は無い2011年。

私たちが踏ん張れたのは、間違いなく、毎年復興の為に生き抜く姿を見せてくれた被災者の方々、それを支援されてきた多くの方々の勇姿です。

12年経った今でも、東日本大震災の映像を小さなアパートの小さなテレビで子供達3人と身を寄せ合って眺めていた事。この事はとても意味のある事だったように思います。

翌月曜日、出社すると、支援物資の取りまとめ等非日常の業務が発生し、営業の人たちは逐一状況を電話で報告してくれていました。
日本中が自分にできる事は何か?を探して、
もがいて、何かやらなきゃという衝動に駆られている時に、
会社のデスクに置いていた携帯が鳴りました。

表示は元夫。
内容は薄々気づいていたのでスルーしました。
何度も何度もかけてきて、スルーし続けると、会社の方へ電話をかけてきました。

「会社の方にかけられるのは困るんですけど」

「じゃぁ電話でろや」

営業の人たちからの電話がひっきりなしにかかってくる中で、元夫の電話を他の方が取ってしまうなんて申し訳ないと思い、
再び携帯にかかってきた元夫からのコールに出ると、その第一声は…

「掃除機返せや!」

ありえないでしょ?
それがモラ夫です。

「日本中が今どんな状況かわかってます?
そんなくだらない事言うための時間、もっと他のやるべき事に費やしたら?」

「じゃぁ掃除機返せや!!」

「直接やりとりしないように言われてるので、弁護士通してもらってもいいですか?」

私はすぐさま弁護士さんに連絡を取り、
会社にかけてくるのは迷惑行為なのでやめさせて欲しいと伝えました。

電話はかかってこなくなりましたが、
弁護士さんからは、

「勝手に持ち出したのは良くなかったですね。宅急便で送り返してください」

はっ?????

アパートから歩いて5分の我が家に宅急便で送り返す??

「日時を指定して家に行くのも危険ですし、
居ない間に戻すというのは、あちらの居住権の問題もありますので」

「玄関に置いとくのではダメですか?」

「何かあったら困ります」

掃除機くらい買うわっ
宅急便で送り返したるわ

日本中がボランティアの精神で、
街は華やかさを抑えて、
お祝い事を自粛して、
そんな気持ちに寄り添うどころか、
滅多に掃除なんかやらないモラ夫の
「掃除機返せ」発言。

離婚は絶対やな、私も闘うぞ。

そして、今年も静かに黙祷を捧げます。
合掌。。。








〜つながる つなげる〜

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もうすぐ満開です

2023-03-05 12:07:00 | 日記
近所の公園の梅林も、
7〜8分咲といったところで、
ピンクの蕾が何だか美味しそうに見えて…



青い空に良く映えます。



この公園にこんなに立派な梅園があると知ったのは、コロナ禍になってからです。

そして、昨年のこの時期に、カメラを上の方に向けている女性を見つけ、
何を撮っているんだろう?とカメラの先を見てみると、



とても立派なミモザの木でした。

レモンイエローの花がチラホラ…


3月8日 ミモザの日
国際女性デー もうすぐですね。

本当の意味でジェンダーレスになる日が来たら、女性デーというものも制定しなくてよくなるのかもしれませんね。

シングル、1人親というキーワードからは
女性をイメージしがちですが、
男性で1人親家庭も珍しくない時代になりました。

しかし、女性の片親という事で、差別的な扱いを受ける事は未だにあります。

その度に、賢くなりたい、強くなりたいと思わせてくれたので、
やはり基本、私は逞しいのかもしれません…

満開のミモザを撮りにまた近々足を運んでみようと思います。

見出し画像は、30年ほど前に買ったお菓子のレシピ本より。この本を選んだきっかけになったミモザのケーキ…可愛い
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする