日本の離婚において、


88%が協議離婚、9.6%が調停離婚、
そして、2.4%が裁判離婚という比率になっているそうです。
自分たちの意志で結婚しておきながら、
話し合いもまともにできず、
調停員の力を借りても話がまとまらず、
裁判官に委ねなきゃ離婚できなかった私たち。
元夫は最初から「俺は絶対離婚しない」の一点張りでした。
家族を愛していたから、という訳ではなくて、
なぜ俺様がそんな目に遭わなきゃいけないのか、
なぜ俺様が協力しないといけないのか、
そんなスタンスだったので、
最初に話をした時も、聞く耳持たず、キレられて終わり、
仕方なく、しばらく家庭内別居を続けていました。
非を認めないどころか、何が非かも理解できていないので、裁判になる事は容易に想像できたのに、厄介なのが調停です。
離婚等家裁で裁判をする場合、
調停前置主義なるものが、法律で決められています。
必ず調停という段階を踏んで、もう一度第三者(調停員)を間に入れて話し合いましょう、というやつです。
例外もあるようですが、本当に例外です。
前述の通り、我が家は話し合いが話し合いにならないので、別居の提案も即却下。
相手と同居していながら、調停を申し立てしなければならない状況。
顔を合わせずに話し合いできるのが調停なのに、調停後、家に帰って顔を合わせなきゃいけないなんて、何とも不可思議な状態。。。
それゆえに、私は何から始めた方がいいのか、、、相談窓口に連絡してアドバイスを求めたりもしました。
子供達も私も、これ以上一緒に住むのは限界と感じていたので、家を出るのが先か、調停が先かは、ある意味"かけ"でした。
どうか、アパートに引っ越してから期日が決まりますように…
幸い期日は引越し後でしたが、
残念ながら調停の呼出状が先に届いてしまいました。。。
自分の分はそそくさと収め、
テーブルの上に一通。
いろいろと相手の出方をシミュレーションしてみる…
激昂することは目に見えているので、対策法をあれこれ考え…
そして…帰ってきた…
「なんやこれ」
「…見ての通りです」
「何やこれ!!ふざけやがって!俺は出らんからなっ」
その後、まぁ悪態つかれまくり、
不機嫌さを全面に出して、最高裁でも何でもやれや!俺は無視してやる!!と吠えまくっている。
どの段階で弁護士に依頼するか、、、
これから先の生活を考えると、極力出費は抑えたいので、できるところまで1人でやろうと思ってましたが、この辺りが限界でした。
そして家を出て…1回目の調停の段階で弁護士に依頼。
直接やりとりするストレスが無くなるだけでも有り難かったです。
家を出た私たちに対して怒りを露わにする元夫。
当然のことながら、私たちの要求は全て即却下。
思い通りにさせる訳ないやろと言わんばかりの措置が次々と起こります。
元夫は住宅ローンが組めなかったので、
ローンを組んだのは私。
控除を受けるために共有名義にしていた事、これが一番ネックとなってしまいました。
子供達が不利にならない方法で…と思って行動していましたが、身の安全の確保の方が優先でしたので、私たちが家を出るのは仕方なかった…
子供達のために家を代わって欲しい。
何度訴えても、"子供達のために"というキーワードには何も響かない人で、
基準は「お前らの思い通りにはさせない」にて、元夫は共有名義である事をいいことに、私たちが家を出てから離婚が決まるまで、広い一軒家に居座り続けました。
当時はまだ固定電話が連絡網に載る時代でしたし、いろんな連絡先にも固定電話を登録していました。
学校や部活の連絡が途絶えてしまう。
回覧板も我が家で遅滞する。
私がせっせと草むしりして手入れしていた庭は荒れ放題。
そして子供達はピアノの練習も出来なくなって…
あーちゃん、アパートで紙の鍵盤で練習していました。まるで大映ドラマのキョンキョン状態です…(薄汚ねぇシンデレラ…わかりますかね?)
困っている、と訴えれば訴えるほど、元夫は勝手に出て行ったのはお前らだと高笑いです。
何より、子供達は、お友達と一緒に学校から帰りながら、自宅を通り越して、今はアパートに住んでいるという事をコッソリ伝えなければならず、
「えっ?でもお父さんは住んでるよね?」
と言われてしまう事実。
想像力を働かせればわかる事をも、元夫にすれば「俺様の知ったこっちゃない」です。
アパート暮らしにおいても、これまでと勝手が違う分、いろんな支障が出ていました。
元夫が陣取る自宅から裏通の入り込んだところに借りたアパート。
実は自宅から比較的近くで、バレる可能性大だったのですが、
意外と灯台下暗しで、奥まっていたのでほとんど元夫が通らない道。
お友達も近くにいるし、ここなら大丈夫と思って引っ越してみると、、、
なんと、、道を挟んで、、校区外でした

だって〜道の向こうにお友達の家あるからてっきり。。。
その道こそが境界だったらしいです。
とはいえ、学校には事情を伝えていたので、道一本くらい大丈夫です!という温かい対応に感謝です。
暫定の住まいですから。
絶対、自宅取り返しますから…。
育ち盛りの子供達の食材を入れるには小さすぎる冷蔵庫。
ほぼ毎日買い物に行き、その日の分を確保する。
特に飲み物…夏に欠かせない麦茶と氷を冷やせないのは困りました。
学校、部活、少年野球と大量の麦茶消費量です。朝から子供達に"冷たい"麦茶を買いにコンビニに走ってもらうこともしばしば。
トースターが無いのでガスレンジのグリルで火加減見ながら食パンを焼く事も子供達上手になりました。
勝手が違う電子レンジで煙をモクモク発生させてしまい、火災報知器が鳴った事もありました。
ハウスダストアレルギー持ちの私と次男は喘息持ちだったので、布団の上げ下げ時にくしゃみ連発。
発作が起こらないように気をつけてはいるものの、やはり掃除機が無いと辛いわ、と
引っ越して2週間ほど経った頃、元夫が居ない隙を見て掃除機他必要な子供達の物を持ち出しました。
いつまでこんな生活続くんだろう。
皆がストレスを感じ始めてていた頃、
忘れもしない、あの日。
2011年3月11日 東日本大震災 地震発生。
会社でその一報を知った私は、単身赴任の社員の人にご家族の安否確認を聞いたり、その時はまだ被害の大きさが伝わっていませんでした。
福岡に住んでいる私たちにとっては、報道で知る状況が全てです。
関東に住む兄一家は大丈夫か?
親戚は大丈夫か?
皆がどうにか安否確認したくてその方法を必死に模索していたあの日…
アパートに帰り、ニュースを見てその光景に息を飲む。
次第に明らかになっていく被害状況。
翌土曜日はいろんな行事が中止となり小さなアパートの小さなテレビで、子供達とその光景を見つめながら、
「アパート暮らしはしんどいと思ってたけど、こんなのしんどいうちに入らないね。
もっとしんどい人沢山いるよ。これぐらいのことで根をあげてちゃいけないね。
この光景を絶対忘れちゃダメよ。」
忘れてはいけないと思い、当時購入した書籍

自宅がありながら、アパート暮らしを余儀なくされた子供達。
その稀有な経験をした2011年。
毎年3月11日黙祷を捧げながら、一生忘れる事は無い2011年。
私たちが踏ん張れたのは、間違いなく、毎年復興の為に生き抜く姿を見せてくれた被災者の方々、それを支援されてきた多くの方々の勇姿です。
12年経った今でも、東日本大震災の映像を小さなアパートの小さなテレビで子供達3人と身を寄せ合って眺めていた事。この事はとても意味のある事だったように思います。
翌月曜日、出社すると、支援物資の取りまとめ等非日常の業務が発生し、営業の人たちは逐一状況を電話で報告してくれていました。
日本中が自分にできる事は何か?を探して、
もがいて、何かやらなきゃという衝動に駆られている時に、
会社のデスクに置いていた携帯が鳴りました。
表示は元夫。
内容は薄々気づいていたのでスルーしました。
何度も何度もかけてきて、スルーし続けると、会社の方へ電話をかけてきました。
「会社の方にかけられるのは困るんですけど」
「じゃぁ電話でろや」
営業の人たちからの電話がひっきりなしにかかってくる中で、元夫の電話を他の方が取ってしまうなんて申し訳ないと思い、
再び携帯にかかってきた元夫からのコールに出ると、その第一声は…
「掃除機返せや!」
ありえないでしょ?
それがモラ夫です。
「日本中が今どんな状況かわかってます?
そんなくだらない事言うための時間、もっと他のやるべき事に費やしたら?」
「じゃぁ掃除機返せや!!」
「直接やりとりしないように言われてるので、弁護士通してもらってもいいですか?」
私はすぐさま弁護士さんに連絡を取り、
会社にかけてくるのは迷惑行為なのでやめさせて欲しいと伝えました。
電話はかかってこなくなりましたが、
弁護士さんからは、
「勝手に持ち出したのは良くなかったですね。宅急便で送り返してください」
はっ?????
アパートから歩いて5分の我が家に宅急便で送り返す??
「日時を指定して家に行くのも危険ですし、
居ない間に戻すというのは、あちらの居住権の問題もありますので」
「玄関に置いとくのではダメですか?」
「何かあったら困ります」
掃除機くらい買うわっ

宅急便で送り返したるわ

日本中がボランティアの精神で、
街は華やかさを抑えて、
お祝い事を自粛して、
そんな気持ちに寄り添うどころか、
滅多に掃除なんかやらないモラ夫の
「掃除機返せ」発言。
離婚は絶対やな、私も闘うぞ。
そして、今年も静かに黙祷を捧げます。
合掌。。。

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