釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:涙活(ルイカツ)って?

2013-12-17 09:59:55 | 釋超空の短歌
テレビをみていたら、当今ルイカツなるものが流行っていることを報じていた。

ルイカツ? 

いったい何のことかと思ったら、涙活と書いて、みんなで集まって積極的に涙を流してストレス解消しようという活動なんだそうだ。

テレビでは、若い男女が集まって映画だか何だかを見て一緒になって泣いていた、その「活動」を映していた。

こんな「活動」が当今流行っているのかと私は驚いたが、試しにネットで検索したら出てきた。

http://www.ruikatsu.com/

テレビでの解説によると、ただ泣くだけではダメで共感をもって泣かなければ「効果」がないとのこと。悔し涙ではダメなんだそうだ。

共感して泣くと副交感神経がより活発に働きストレス解消になるとのこと。それも一人密かに泣くよりも皆んなと一緒になって泣くと、より効果があるのだそうだ。

何かに共感してシミジミと涙を流せば気持ちがスッキリすることは今更言われなくなくても先刻承知なことだが、その行為を皆で集まって、まるで『泣きましょう会』みたいな活動があることや其れを涙活と称したりすることは、いかにも現代風ではある。

子供や女どもが集まって泣くのは、まぁイイが、いい歳こいた男どもが集まって泣く光景は私には異様に見える。

私の世代では男は泣くものではないというのが不文律であった。

しかし若造たちが化粧するらしい当今であるから、男どもも集まって、さめざめと泣きあうのは時代の趨勢というものかも知れない。

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昔、邦画全盛の頃、母親・娘が無情にも離れ離れになるというお決まりのストーリーの映画が流行った。

母親役は常に三益愛子で、娘役は常に白鳥みずえだった。 彼女たちを知っている人は今や稀有だろう。

このテの或る映画の立看には『三度泣けます』と書いてあった!!

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私が泣いたのは、さて、いつだったろうか。思い出せない。

雑談:SNSでの孤独

2013-12-09 13:30:01 | 釋超空の短歌
趣味人倶楽部という年配者を対象にしたSNSがある。
このサイトは入会者は日記を書くことができ、入会者のほとんどは日記を書いているようだ。

このサイトに数日前に入会した或る人が退会するという。
私は、たまたま其の人の日記が目にとまり興味を覚え、その人の此のサイトでの短い期間の日記を毎日読み、かつコメントも書いてきた。

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このようなサイトで日記を書く理由は人それぞれだろう。

ある人は自身の「何か」の披露であり、その「何か」の賛同者の出現に快感を覚え、その快感そのものが日記を書く主な動機となっていくだろう。

もし、そうでないなら、なにも此のようなサイトに書く必要もなく自身のノートなり、PCのHDへ書き込むなり、然るべきメディア等へ投稿するなりして、コト足りるはずだからだ。

このような志向の人の、SNSで日記を書くということの行為の危険性は賛同者の不在による失望感で傷つき易いということである。

つまり、そのような志向の人の日記を書く真の動機は自身の「何か」の披露ではなく、他の人との人間的な親密な接触にある。

簡略して言えば、そのような志向の人は自身の孤独感から日記を書いているのであり、その孤独感を薄めるために他の人との親密な接触を実は求めている、と断じてよいように私には思われる。

そして、このような志向の人は、その志向が強いほど、他者の反応に過敏であり、その結果、逆に他者から疎遠になりがちだと思われる。

孤独者ほど他者を求めるのだが其の孤独性が逆に他者をして敬遠させるという悪循環に陥りやすいと思われる。

勿論、他の動機で日記を書いている人も大勢いるだろう。

しかし、上記した志向の人も少なからずいると私は思う。

そういう人にとって、このサイトの「お気に入り」とか「拍手」というシステムは必ずしも良いものではない。

その理由が分からないという人は(このサイトの運営者も含めてだが)、私に云わせれば鈍感な呑気な幸せ者と言える。

なにも難解な形而上的理由などではなく、この現在の申し子である各種のIT技術は実は人間の孤独性を更に悪化させている、と私は思う。少なくとも、そういう一面を内在させている。

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上記した事柄が事実であることは私は自信をもって断言できる。
なぜなら、私自身が上記した志向の人間に他ならないからだ。

雑談:狂言 『釣狐』

2013-11-05 10:05:06 | 釋超空の短歌
先日、NHK・TVで狂言『釣狐』が放送された。

私は古典芸能についても全くの無知であるが、関心だけはあって、TVで放送される此の種の番組は時折視聴している。

もう何十年も前になるが、当時のNHK・教育テレビで、日曜日の午後7時頃からだったか『日本の芸能と伝承』という実に地味な番組が放送された。

それは日本各地に伝わる伝統芸能を其の土地の人々が継承している様子を記録するという、誠に「教育テレビ」ならではの番組だった。

この番組をみているのは私の近辺の家では私だけだろうと思いながら見ていたものだ。しかし私は毎週此の番組を楽しみにしていた。

今でも覚えているが、山形県の黒川能が紹介されたとき、その演者の一人が・・・勿論、その土地のお百姓さんか何かだろうが・・・神酒に酔っぱらったのかフラフラしながら舞っていた。

実に、土着ならではの舞ではあった。
其れは決して洗練されてはいないが、しかし本来の芸能の持っていたはずの土臭さは多分に残されていて、そういうところが此の番組の面白さであった。

そのような土着性を記録しておくというのが此の番組のコンセプトだったのだろう。 民俗学的にも貴重な映像記録として現在も残っているだろう。

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先般、『百年インタビュー』というNHKの番組で野村万作が出ていた。

狂言演者には『猿で始まり狐で終わる』という言葉があるようで、狐で終わるとは『釣狐』という演目を演ずることが、狂言演者として一応認められるという、狂言演者としての一つの区切りのようだ。

この番組で野村万作は、演者として『釣狐』の苦労さと其の魅力を熱っぽく語っていた。 この人は私は昔から知っているが、もう80歳を過ぎたという。私も歳とったわけだ。
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先日、私がみたNHK・TVの『釣狐』は野村万作ではなかったが、名前は忘れたが若手の兄弟によるもので、狂言特有のアノの突き刺すような鋭い発声も、若手らしく朗々としていて、それに耳傾けるだけでも快かった。

こちらの歳のせいか、この演目の前半の老狐の、或る種の「侘しさ」も何となく身に染みるものがあった。

狂言は快活な笑いを生命とする芸能だが、この『釣狐』には、もっと別な何かがある。

また能とはまた違う「何か」がある。

能の世界は或る意味で高尚と言えるかと私は思うが、この『釣狐』には我々庶民レベルの凡庸さと其れへの侘しさが表現されている。

快活な笑いというより、侘しい苦笑いである。

恐らく此の苦笑いは或る歳を越えた人には誰にでも内心感じているものだろう。

雑談:ブライアン・イーノの曲と科学

2013-09-21 10:17:43 | 釋超空の短歌
随分前の話だがテレビの或る科学番組で・・・その番組は確か現代物理学の一般庶民向けの解説番組だと記憶しているが・・・ブラアン・イーノの『THE DANCE』がBGMとして流れた。

実はそのとき、私はブライアン・イーノという人を知らなかったが、そのBGMの曲は印象に残った。

その頃、私はNECのPC-VANの会員であったが、その会員の中に大変音楽好きな人がいた。その人は工学部出身の人で例の番組をみたらしかった。

そこで其の番組が話題になったとき、そのBGMはブライアン・イーノという人の曲『THE DANCE』であることを其の人から教えられた。私は其の曲が強く印象に残っていたので早速其の曲のCDを買った。

この曲の私の印象は、なんと表現したら良いか、素粒子が放散しているような感じがあり、そういう意味で現代物理学風であり、そのテレビ番組の内容にマッチしていた。

しかし、同時に其の曲『THE DANCE』は、タイトルどおり、どこかインドあたりの古典舞踊をも私に連想させた。

この頃は・・・'80年代だが・・・いわゆるニュー・サイエンスが時代精神として盛んな頃だった。

フリシチョフ・カプラの『タオ自然学』が此の頃の科学の時代精神の象徴だった。科学において、いわゆる東洋思想が見直され、其れを科学において重視する時代潮流があった。 この本は今でも売られている。

そういう時代精神があったから、現代物理学の解説に使われた『THE DANCE』が、私にインド古典舞踏を連想させたのは当然だったかも知れない。

私が購入したブラアン・イーノのCDには、『THE DANCE』と共に『MEDITATION』という曲も収録されている。
これも東洋風の瞑想』むを連想させる。

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今世紀に入って科学は'80年代に全盛だったニュー・サイエンスから離れ、それ以前の『分析主義』主流の科学に戻り、ニュー・サイエンスは一時の流行に終わった観がある。

ブラアン・イーノ自身は科学とは何の関連のない人だが・・・彼は自らをノン・ミュージシャンと称しているようだ・・・私は『THE DANCE』や『MEDITATION』を聴くと'80年代の頃を思い出す。

そして、これらの曲は科学云々を離れて、今でも私の好きな音楽の一つであり、今でも繰り返し聴いている。

雑談:『遺伝』(萩原朔太郎)

2013-08-18 08:08:08 | 釋超空の短歌
詩人の心は私たちの無知を思いしらしめる。
その典型の詩が掲題の詩であると私は思っている。

科学が此の世の事実上の絶対的な宗教ないし教義になって久しい。それどころか其の教義は、ますます私たちの心を占領し強制し盲目化していく。

いったい、此の世の在りようは真実如何なるものであろうか?

科学は其のことに対して私たちを盲目化させている。
これほど強烈なイデオロギーは、かって無かったではないか。

掲題の詩人は明らかに此の教義から此の世界を見ていない。  だから私は此の詩に強く注目する。

作者は一体何を凝視しているのか。

私たちは科学という教義に安住し、また「疑う」ことを忘れている。

此の世界は実は如何なる「土台」も無いのではないか。

宙ぶらりんの私たち。その下には不気味な闇が続いている。 結局、何も知らない私たち。

永遠の沈黙と其の恐怖。

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人家は地面にへたばつて
おほきな蜘蛛のやうに眠ってゐる。
さびしいまつ暗な自然の中で
動物は恐れにふるへ
なにかの夢魔におびやかされ
かなしく青ざめて吠えてゐます。
  のをあある とをあある やわあ

もろこしの葉は風に吹かれて
さわさと闇に鳴つてる。
お聴き! しづかにして
道路の向こうで吠えてゐる
あれは犬の遠吠だよ。
   のをあある とをあある やわあ

「犬は病んゐるの? お母さん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのです。」
遠くの空の微光の方から
ふるえる物象のかげの方から
犬はかれらの敵を眺めた
遺伝の 本能の ふるいふるい記憶のはてに
あはれな先祖のすがたをかんじた。

犬のこころは恐れに青ざめ
夜陰の道路にながく吠える。
    のをあある とをあある のをあある やわああ

「犬は病んでゐるの? お母さん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのですよ。」