釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:鎮魂について

2013-08-16 08:49:23 | 釋超空の短歌
鎮魂とはどういう意味だろうか。

Wikiによると『今日では「鎮魂」の語は、死者の魂(霊)を慰めること、すなわち「慰霊」とほぼ同じ意味で用いられる。』とある。

ここ10年の間、私に親しきものたちが次から次へと死んでいった。

それらは人間に限らない。人以上に私に親しい犬・猫たちも其の短い命をなくしていった。

***
私は死者の魂の存在は信じていない。
従って、私の親しきものたちの墓も無い。

いや、そのような言い方は正確ではない。

私の親しきものたちは今も私の心の中に依然としている。

「墓」とは私にとって、心の中に依然としている親しきものたちのメタファーと言ってもよい。

***
今も私の中に依然としている親しきものたちへの鎮魂とは何を意味するのだろう。

それは結局・・・私の心を鎮めることに他ならない。

私は其れを若くして既に無意識にも知っていたようだ。
私が以下の詩に強く惹かれたのは二十歳前だったのだから。

そのときは知らなかった意味が今は痛烈に理解できる。
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わが為は 墓もつくらじ-。
 然れども 亡き後(あと)なれば、
  すべもなし。ひとのまにまに-

   かそかに ただ ひそかにあれ

  生ける時さびしかりければ、
  若し 然(しか)あらば、
  よき一族(ひとぞう)の 遠びとの葬(はふ)り処(ど)近く-。 

  そのほどの暫しは、
  村びとも知りて、見過ごし、
 やがて其(そ)も 風吹く日々に
 沙(すな)山の沙もてかくし
 あともなく なりなんさまに-。

  かくしこそ-
  わが心 しずかにあらむ-。

 わが心 きずつけずあれ
     (釋超空)

86 『我が庭のやつでの広葉・・・』

2013-08-11 10:25:09 | 釋超空の短歌
 わが庭のやつでの広葉 ゆすりたち。
      さやかに こゝを風の過ぎゆく 
***
父が病死し、その後、母も病死して、もう何年たつのだろう。

わたしは父の居ない母宅に六年寝泊りした。

その母宅には、"やつで"が植えてあった。丈夫な植物で何の手入れをしなくても、つやつやした葉を茂らしていた。 母宅には、いろいろな木々が植えてあった。

母の死後、幸いにも母宅を購入してくれる人が現れた。

しかし其の人は家ではなく土地が欲しかったようだ。

その土地を売却後、しばらく私は其処を訪れなかった。

何年か後、其処をたまたま通ったら、家は無く、庭にあった木々も全て処分されていた。
車の駐車用として平地にされていた。

***
あの"やつで"も無くなっていた。

わたしは、亡くなるということは、こういうことだなと思った。

雑談:『サラサーテの盤』を聞く

2013-08-07 15:06:18 | 釋超空の短歌

私は内田百の幻想短編小説が好きだ。『東京日記』とか。

この『サラサーテの盤』も妙な感触の短編で、試しに検索してみたら内田朝雄が朗読していた。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm15465310
***
鈴木清順監督の映画『ツィゴイネルワイゼン』も私は観ているはずだが、全く記憶に残っていない。

ただ、この映画で川端の料亭がでてきたと思ったが、その場面あたりで古めいた橋もでてきた記憶だけが・・・私の勘違いかもしれないが・・・ぼんやりとある。

実は其の橋は私は見覚えがあるのだ。

それは大井川に架けられた古い木橋で、確か養老橋と言った感じの名前の橋で、いかにも古伝説にでも出てきそうな古木しかし橋であった。

しかし今や此の木橋はないだろう。

85. 『いにしへや・・・』

2013-07-24 08:54:46 | 釋超空の短歌
当地では、ここ数日、鬱陶しい日々が続いている。

私は、ふと、釋超空の詩集を読みたくなった。
以下は私の好きな詩の一つである。

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 いにしへや、
かゝる山路に 行きかねて、
 寝にけむ人は
ころされにけり

 雨霧のふか山なかに
息づきて
寝るすべなさを
 言ひにけらしも

山がはの澱みの 水(み)の面(おもて)
 さ青(を)なるに
死にの いまはの
  唇(くち) 触りにけん

***
私は此の詩の、特に最後の連に、釋超空の特異性を強く感じる。

人によっては芥川龍之介の短編小説を連想するかも知れない。

此の人は芥川よりも翳が濃く、罔(くら)い。と私は思う。

 

雑談:TVドラマ『日本の面影』(1984年、NHK)

2013-07-18 10:01:32 | 釋超空の短歌
だいぶ昔、NHKで『日本の面影』というドラマが放送された。

小泉八雲の『日本の面影』を踏まえたドラマであったが・・・私は此の本は読んでいないので正確なことは言えないが・・・この本のドラマ化というより、島根県・松江などでの小泉八雲と彼の家族の生活を描いた佳品であった。

TVドラマなるものを全く観ない私には珍しく大変面白く観たものだった。

このドラマで異色だったのは、ラフカディオ・ハーンを演じたのが、あの『ウエストサイド物語』のジョージ・チャキリスであった。

私は此の配役に最初驚いたものだが、意外にも実に適役で私は此のドラマを観ていくうちに私は彼に大変好感をもつようになった。

恐らく、『ウエストサイド物語』にも優るとも劣らぬ彼の代表作と言ってもよい好演だった。

小泉八雲の妻・小泉セツは壇ふみが演じたが此れも好演だった。
また脇役陣も芸達者が並び充実したドラマだった。

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このドラマをサイトで調べていると、ブログで紹介している人がいた。
それを無断で紹介しておこう。

http://marilyn-m.at.webry.info/201005/article_6.html

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このドラマは随所で、当時においても失われゆく『懐かしき日本の面影』が紹介されている。

私は谷崎純一郎の『陰翳礼賛』が好きだが・・・此れは、もう一度再読したい本の一つだが・・・、鯉住八雲は、日本の国の此の『陰翳』をこよなく愛したと言われる。

このドラマでは其の『陰翳』も映像化されており、未だ此のドラマを観ていない人は機会があったら観ても損はないと思う。

『風情(ふぜい)』と云う言葉自体、死語になりつつある此の国において、まだ其の残滓は残っているのであり、眼力のある人は其れを現在も発見できるだろう。
 
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そもそも『幽霊』のいない国は詰まらない国である。
それは断言できる。

なぜなら、そのような国は『光』が無いからだ。
『夜』がなくて、どうして『陽光』があり得よう。