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釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:『ホーキング最新宇宙論』(日本放送出版会) その1

2012-03-29 14:59:21 | 非文系的雑談
今から20年程前になるが、私はNECのパソコン通信:PC-VANに加入していて、そのSIG(特定話題掲示板):BOOKSへ本の読後感想文を盛んに書き込んでいた。

かなりの数の感想文をup-loadしたのだが、現在、そのLOGは全て無くなってしまった。
最近たまたまインターネットで検索してみたら、当時そのSIGのOP(管理人)だった人がBOOKSのLOGの一部をインターネット上で保存していた。

その中に私の二つの感想文も保存されていた。以下は、その残されていた感想文であるが、掲題の本は1990年出版の本だから、物理学の進歩から言って今や最新とは言えないかも知れない。しかし、基本的には私の感想は当時と変わっていない。以下の感想文で沿岸情勢云々が出てくるが、やはり時代の流れを感ずる。
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カミュは『シジフォスの神話』で( と言っても私は最初の処しか読んでないが )、ガリレオの発見した科学的真理を評して、『そんな真理は火あぶりにされるには値しない』と書いている。そして次ぎのように続けている。

『地球が太陽の周りをまわるのか太陽が地球の周りをまわるのか、これは実際のところどうでもよいことなのだ。言ってしまえば、これは下らない問題だ。これに反して私は、多くの人間が、人生は生きるに値しないと考えるが故に死んでいくのを眼にしている。 (中略) だから、私は人生の意味こそ最も緊急な問題であると判断する。』

私は、このホーキングの一般読者向けの最新の講演集を読みながら何度も上記のカミュの言葉を思い出した。

この宇宙はホーキングの言うように、それが物理学の言葉であるにせよ、完全に完璧に語り尽くされる時がくるのだろうか。ホーキングは、今世紀中にそれが可能だろうと言う。かの天才・ホーキングの予測なんだから、恐らくそうだろう。

完璧といっても、( 不確定性原理などの規定するあいまいさは残存するにせよ、)われわれ同胞の人類は、この世の究極のありようを知ってしまうことになる。

本当だろうか。そして、もし、それが本当に実現したとき、上記のカミュの言葉はどういう色彩をもってくるのだろうか。

新聞をみれば、今日もまた、沿岸情勢がどうのこうのと騒がしい。カミュの言うように相変わらず人間どもは『自分たちに生存理由を与える観念や幻想のために殺し合いをするという自己撞着を犯している。』

E=mC^2 は、その神秘的とも思われる美しさをよそに、よく云われるように人類はその方程式から原爆をも導きだした。

神とは何だか私は知らないけれど、しかし、現代の帝王である物理学が、もし、神は不要だと断言してしまったなら、たとえ神の無用さが”事実”であったにせよ、それを断言してしまったなら、そのあと、なにが人間に残されるのだろうか。人類の知性の勝利?
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(その2へ続く)

雑談:『百物語』 (森鴎外)

2012-03-20 11:31:25 | 非文系的雑談
なんだか雑談が続く。釋超空は、いわゆる『にそくの草鞋(わらじ)ということで、鴎外を敬愛していたようだ。さて以下は、その鴎外の『百物語』の雑談。
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私はこの短篇も好きだ。この短篇の大きな特徴と思われることは、人生における鴎外の立場を鴎外自身が明確に述べていることだろう。下記の有名な一節がそうだ。

『僕は生まれながらの傍観者である。子供に混じって遊んだ初めから大人になって社交上尊卑種々の集会に出て行くようになった後まで、どんな感興のわきたったときも、僕はその渦巻に身を投じて、しんから楽しんだことがない。僕は人生の活劇の舞台にいたことはあっても、役らしい役はしたことがない。たかがスタチスト (注:端役)なのである。』 (文中の注は私が付記した)

また鴎外は『予が立場』という文章( と言ってもインタビューに答える談話のようだが )、ここで鴎外は以下のように語っている。

『私の心持をなんということばでいいあらわしたらいいかというと、resignation (注:諦念)だといってよろしいようです。文芸ばかりではない。世の中のどの方面においてもこの心持でいる。それでよその人が、私のことをさぞ苦痛しているだろうと思っているときに、私は存外平気でいるのです。もちろんresignationの状態というものは意気地のないものかも知れない。その辺りは私のほうで別に弁解しようとは思いません。』 (注:文中の注は私が付記した)


あるいは、『妄想』という文章で鴎外はこうも書いている。
『自分には死の恐怖がないと同時にマインレンデル (注:ドイツの哲学者。ショーペンハウエルの厭世哲学を信奉し自殺を賛美してみずから生命を絶った。)の「死の憧憬」もない。 死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下っていく。』 (文中の注は私が付記した)

これらの文章が書かれた時期は『百物語』が明治44年、『予が立場』が明治42年、そして『妄想』が明治44年であるから、これらは、ほぼ同時期だといえる。鴎外は大正11年に亡くなっているから、これらの文章は鴎外晩年の心境を見せている。

鴎外は他の作品でも、ある種のペシミズムというより鴎外自身が言うresignationを垣間見せているが、それを一種のスタンドプレーと見る人もいるかも知れない。そう思う人は勝手であるが、私はそうはみない。上記した文章は鴎外の正直な心情だと私は思っている。

芥川龍之介は森鴎外を評して、『先生は僕らのように神経質ではない。』という意味のことを何かに書いていたが、鴎外のresignationは、いわゆる文学青年の苦悩という名の感傷もしくは自己満足とは性質が根本において違うと私は思う。要するに感傷ではなく諦観なのだ。

さて『百物語』だが、この短篇に私が惹かれるのは上記した『傍観者』云々が直接書かれているからではない。むしろ『傍観者』たる作者の乾いたresignationが、この短篇の噺に音もなく底流している。この索漠とした読後感はむしろ私には心地よい。

鴎外の『脳髄の物置のすみに転がってい』たというこの噺は、その湿度の低さにおいて全く日本人離れした短篇であり、まさに鴎外的世界の典型だと私は思っている。

この短篇の最後。何度読んでも私に深い余韻が残るのは何故だろう。

『僕は黙ってたって、舟から出るとき取りかえられた、歯の斜めにへらされた古下駄をはいて、ぶらりとこの化物屋敷を出た。少し目の慣れるまで、歩きやんだ夕闇の田圃道の草の蔭で蛼(こおろぎ)がかすかに鳴きだしていた。』

雑談:e^πi=-1 という公式の神秘

2012-03-10 10:35:54 | 非文系的雑談
数学のなにものかに神秘を感ずるのは大抵、数学的才能の無い人だそうである。そうならば私は全く数学的才能は完璧に零である。いまさら、零であろうがなかろうが、どうでもよいのだが、e^πi=-1 という公式(オイラーの公式)は見れば見るほどスゴイ。美の極みと言っても言いたりない。

この公式は確か『博士の愛した数式』という映画(原作の同名の本もあるようだが)に出てきたから知っている人も多いだろう。

ここで私以上のド素人に説明を加えておくと、この公式のe,^,π,iは以下を示す(-1は、いくらなんでも知ってるだろ?。)

e は自然対数の底といって、知る人ぞ知る、この世の自然現象の超基本的な定数。πはご存知『半径に対する円周の比』で、これも、この世の自然現象の超基本的な定数。^はベキ乗の記号。iは虚数単位で、これも知る人ぞ知る、この世の自然現象の超基本的な値。これで、記号の意味は解ったことにしよう。

要するに、e,π,iは、この世の自然現象の要の要の要の・・・・超基本的な定数なのだ (これらの一個でも、もし存在しなかったら、この世の文明はおろか、この世自体も有り得ないという、凄いシロモノなのだ。)

その凄い、この世の3つの基本定数がe^πi=-1という単純極まる式で関係づけられている!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

すごい、というより、まさに美の極致だね、私に言わせれば、いや私だけでなくても誰でもそう思うだろう。 ダ・ヴィンチのモナリザなど、この美に比べれば、言葉は悪いが屁みたいなもんだぜ。

え?! 美しいと思わない 。ああ、あんたは不幸な人おヒトだ。
というより、日本の数学教育根本的な大変革が必要だ!!

雑談:ゲーデルの不完全性定理

2012-03-10 10:29:03 | 非文系的雑談
ゲーデルの不完全性定理
私はゲーデルの不完全定理を素人として勉強中である。

この定理を山に例えるなら私は未だその裾野にさえ到達していない。果たして裾野さえ到達できるか全然自信はないのだが、幸いにも、この定理について日常語で語ってくれている偉人たちがいる。それを以下に紹介しよう。

以下の日常語での、この定理の解説さえ理解するのは難しい。
しかし、この大定理の微かな香りでも感ぜられればそれで私は充分だ。
下記のvon Neumannは20世紀での最高の数学者の一人だ。
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・ゲーデルの不完全性定理について(竹内外史、「現代集合論入門」より抜粋)
1. Oppenheimer
(ゲーデルの)仕事は数学的議論の論理的構造をはかりしれぬほど深め、また豊かにしたのみならず、人間の理性一般における限界というものの役割を明らかにした。

2. von Neumann
ゲーデルはつぎのことを証明した最初の人である。
現在までに承認された数学の厳密な方法では証明することも、否定することもできないものがある。
換言すれば、彼は決定不能な数学的命題の存在を証明したのである。
彼はさらに重要な特別な命題が決定不能であることを証明した:すなわち数学がその内部に矛盾を含まないという命題がそうなのである。
この結果は”自己否定的”逆理的な性格においていちじるしい。
すなわち数学が矛盾を含まないということを確認することは数学的には不可能なのである。
重要なことは、このことは哲学的原理や疑わしい知的方針ではなくて、極度に学問的な厳密な数学的証明の結果である。
私がここに述べた表現は粗っぽい表現であり、厳密に表現したときのみごとな性質を抹殺してしまうものであるが、しかし、記号論理学のむつかしい技術的な表現を避けて定理をのべようと思えば、これができうる最善に近いかと思うのである。

雑談:『ホロン革命』(アーサー・ケストラー著、工作舎)

2012-03-09 11:40:44 | 非文系的雑談
この本を読了したのは、S.60/12/29。この本の最後に、そう、鉛筆書きしてある。
もう、1/4世紀以上も前になる。今でも、時々、パラパラと頁をめくって、気に入っている箇所を読んだりしている。この本で特におもしろかったのは、プロローグと、第14章だ。

まず、プロローグについて。
他の生物に比し人類という種の著しい特徴として、著者は人類の狂気について語っている。彼は言う。

『文明の進んだ惑星から公平な観察者がやってきて、クロマニヨン人からアウシュヴィッツまでの人間の歴史を一望すれば、人類はいくつかの点では優れてはいるが、概してひどく病的な生物で、それが生き残れるかどうかを考えるとき、その病のもつ意味は、文化的成果など比べものにならないほど重大である、と結論するに違いない。』

その人類の「病」の原因として、彼は、以下を挙げて説明している。

(1)ワニとウマとヒトとが、同居する人間の脳の矛盾
(2)人間の悲劇を生む過剰な献身
(3)もっとも恐るべき兵器「言語」
(4)死の発見と死の拒絶

例えば、アラン・レネの記録映画『夜と霧』などを観たとき、上記の著者の、これらの人間の病に対する指摘は大変説得力がある。(1)については、脳科学の進展により、現在は、いくつかの訂正を要する記述があるかも知れない。しかし本質的には(1)の指摘はおそらく現在も未来も妥当だと私は思う。人類という生物種が果たして今世紀まで存在しえるのかどうか?、これは決して笑止な問いではない。
実際、今年はキューバ危機の50周年である。

人類の滅亡は遅かれ早かれ必ず到来する。その原因が著者の言うような意味での、言わば『自』か、あるいは、もろもろの自然災害に拠る『他殺』かは別にして。
ここでも我々は2011/3/11を体験している。

しかし我々凡人は、いずれにせよ、そんなことは無い『かのように』生きなければならない。まさに『世の中は地獄の上の花見』かな、である。願わくば、地獄を経験なくして、あの世へと、おさらば、したいものである。

もう一つ、この本で面白かったのは、第14章。
人間の、もろもろの感覚の限界は、要するに、『そういう現象を想像できないのは、それがありえないことだからではない。人間の脳が、そして神経系がそれに対応できるようにプログラムされていないからである。』(455頁)

このプログラムという表現が新鮮で、分かりやすかった。
事実、4次元空間を知覚できる生物は、この地球上に存在するかも知れない。ここで言う4次元空間とは、縦・横・幅以外の空間次元を指す。人間が3次元空間しか知覚できないのは、人間の脳が、そのようにはプログラムされていないだけのことかも知れないのだ。

私のこの本は既に古色をおび、表紙はとれそうになっている。カ゜ムテープで接着しようと思っている。この本も私の棺おけの中に入れたいと思っているが、さて実現されるかどうか。

アーサー・ケストラーは1993年2月、夫人と共に自殺してしまった。巷間では『安楽心中』と話題になったそうだ。