釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:『妄想に取り付かれる人々』

2012-06-15 07:26:27 | 非文系的雑談
(リー・ベア著、渡辺由佳里訳、日経BP社)

フェデリコ・フェリーニの映画に『悪魔の首飾り』という短篇がある。

原作はE.A.ポー『悪魔に首を賭けるな(Never Bet the Devil Your Head)』)だが、
この映画の主人公は妄想・幻覚に日ごろから悩んでいる。
彼のその妄想・幻覚は少女として現れる。

彼は英国の映画or演劇の人気スターで、ある映画の出演でイタリアに来る。
彼がTVインタビューを受ける場面がある。 インタビュアーと彼とで、こんな会話がされる。

Q「あなたは神経質だとか?」
A「はい。唯一の長所です。」
Q「お酒が好き?」 
A「はい。でも飲むと悲しくなるのです。実は今も泣いているのです。」
Q「神を信じますか?」
A「いいえ」
Q「では、悪魔は?」 
A「悪魔は・・・信じます。」
Q「見たことありますか? ヤギとかコーモリとか?」 
A「いや、そんなじゃあありません。私はカトリックではないので。
    私の悪魔は・・・・かわいい少女。」
***
私はこの映画が好きなので何度も観ている。
観ながら、いつも思うのだ。
一体彼の幻覚・妄想は精神病理上なんと呼ばれるものなんだろうと。

さて、ここから掲題の本の感想にうつる。

この本は、精神病理の素人向けに書かれた本だ。

著者はハーバード大学心理学の脅迫性妄想の専門医で、臨床経験も豊富なようで、本書では症例の具体例を挙げて、それを丁寧に説明している。

この本で著者は『妄想に取り憑かれる』とはどういうことかを、E.A.ポーの短篇『天の邪鬼』を引用して説明している。 このポーの説明が最も完璧にして優雅な表現だと、著者は言う。

そのポーの説明を簡単に説明すると以下のようになるという。

『人間には、生得的に相矛盾する行動をとらせるモノが内在しており、 それを「 天の邪鬼 」とでも呼んでおこう。 そいつのせいによって、 人間の、ある特定の精神が、ある特定の状況におかれたとき、その人間の、不合理な行動への衝動は、 抗いがたいものになる。』

ここで上記の映画にもどると、彼の『不合理な行動への衝動』による結末は、(詳しくは映画を観ていただきたいが)、結果的に鋼鉄のワイヤ線で自身の首をはねるということになる。

彼は、実は、少女という面をかぶった『天邪鬼』に取り憑かれていたのだ。

この天の邪鬼に取り憑かれると『脅迫性障害』という病名がつく状態となるそうだ。

しかし怖ろしいことに、人間は誰しも、この天の邪鬼は極くありふれたものとして自身に内在しているというのだ。

『決してしてはならないことをしてしまう、おぞましい想念』が、この『天邪鬼』の正体であり、それは多少なりとも誰もが持っている、というのだ。

多くの人にとって、それは『シャクのタネ』程度ですみ、無くなっていく。

ところが、ある種の人々には、その天の邪鬼は凶悪化し、その人々を苦悩させ破滅へと導く。  上記の映画では、彼の頭に執拗に内在していた天邪鬼は、少女=悪魔という脅迫性障害を発症させ、その結果、『決してしてはならないコト→ワイヤによるギロチン』で自身を破滅させる。

『決してしてはならないことをしてしまう衝動』の対象は自身だけではない。
他人にも及ぶ。 わが子にも及ぶ。 ホロコーストから児童虐待など、その例は山ほどあるのだろう。
***
『決してするな』と言われたら、いや言われたればこそ、してしまう人間の心の闇は
謡曲『黒塚』の主題であり、ポーの『天邪鬼』説をまつまでもないことかも知れない。
***
そして、この本によれば、興味深いというより怖ろしいことに、この『おぞましい想念』は人類の遺伝子に組み込まれており、そのような想念をもつ理由を進化論で説明できるというのだ。

(この本のP94~参照)。
人類に植え込まれた攻撃的で性的な衝動は、他のほ乳類と共通する”下位の”脳で管理されている。

この管理は脳の眼窩前頭皮質( つまり目の穴の上に乗り、大きなおでこの裏の部分の脳 )によってなされる。この皮質の役割は下位の脳が作り出した思考や衝動を行動に移すかどうかを決める。

要するに、私たちにとって重要なことは『天邪鬼』は誰にでもいる、ということだ。

すなわち、私たちは『決してしてはならない、不合理な行動への衝動』は私たち自身に実は内在している、ということだ。 例えば児童虐待は決して他人ごとではなく、状況によっては貴方自身が行ってしまうかも知れないということだ。

***
以上、上記については、この本の解説において私の誤解があるかも知れません。
興味あるかたは本書を読んでください。

雑談:『白骨』(蓮如の御文=おふみ)

2012-06-15 07:16:11 | その他の雑談
私はちょっと覚えておきたい言葉などをメモしている。以下はそのメモだ。蓮如の言葉(御文=おふみ)だそうだ。( 以下の言葉は詠みやすいように私が勝手に空白行を入れた。)
***
夫(それ)人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものは、この世の始中終まぼろしのごとくなる一期なり。

さればいまだ万歳(まんざい)の人身(じんしん)をうけたりといふ事をきかず、一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。

我やさき、人やさき、けふともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしづく、すゑの露よりもしげしといへり。されば朝(あした)に紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。

すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとぢ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李(とうり)のよそほひをうしなひぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外(やがい)におくりて夜半(よわ)のけふとなしはてぬれば、ただ白骨(はっこつ)のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。

されば人間のはかなきことは老少(ろうしょう)不定(ふじょう)のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏まうすべきものなり。

あなかしこ。あなかしこ。
------------------------------------------------------
『読み解き 般若心経』(伊藤比呂美著、朝日新聞社版)という本があって、著者がこの後文(おふみ)「白骨」を以下のように現代語訳している。この訳が私はおもしろいと思うので、それを引用しよう。
(この文章も私が勝手に空白行をいれた。)
-----------------------------------------------------
つまりこういうことでございます。

ただよっているような人の生きざまを、つらつら観察しておりまして、はかないなぁと感じるのは人のいのち。はじまるときもその途中でも終わるときも、まぼろしのような人のいのちです。
そういうわけで、

一万年生きた人の話は聞いたことはございません。
一生はすぐ終わります。百年間、老いずに生きた人が、これまでにおりますか。

自分が先か、人が先か、今日かも知れない、明日かも知れない、滴が、木の根元に落ちたり葉末にひっかかったりするよりも、せわしく、人は、死に後れたり生き急いだりしてゆきます。

そういうわけで、朝のうちにあかいほっぺをかがやかせておっても夕方には白骨となってしまうかもしれない身の上です。

今にも無常の風が吹いてくれば二つの目はたちまち閉じる。一つの息はたちまち絶える。笑顔がむなしく死に顔となり、花のようだった美しさが消えてなくなる。そのとき、親類縁者が集まって嘆き悲しんだところで、もう、どうしようもない。

ほっとくわけにもいきませんから、野辺の送りをして夜のうちに煙となる。そして、白骨だけが残るのであります。あわれというだけでは、とうてい言い足りませぬ。

おわかりいただけましたか。

人間のはかないことは、老いも若きもありませんから、どなたもお若いうちから、いつかは死ぬのだということを心がけ、阿弥陀仏におまかせして、念仏をおとなえすべきなんであります。

失礼しました。
-------------------------------------------
現代は、
『百年間、老いずに生きた人が、これまでにおりますか。』
には訂正しなければならない時代になるかも知れないが、恐らく二百年生きる人は流石に将来でもあるまい。

また、かっては信長が愛好したといわれる幸若・敦盛では、
『人間五十年、化転の中をくらぶれば夢まぼろしのごとくなり。一たび生を受けて滅せぬ者のあるべきか。』
と謡われた。五十年にしろ二百年にしろ我われは無常であることには変わりはない。 
***

中世の今様に以下のようなものがある。

昨日見し人今日はなし
今日見る人も明日はあらじ
明日とは知らぬ我なれど
今日は人こそかなしけれ
***
ところで『今日は人こそかなしけれ』の『かなしみ』とはなんだろう。
勿論、「悲しみ」ではない。「哀れ」とも違う気がする。強いて言えば、「懐かしみ」に近い情感だろうか。

『明日とは知らぬ我なれど』だが私は今日も病院通いを続けている。
思えば、結局は無駄な努力ではあるのだが、『阿弥陀仏におまかせして、念仏をおとなえすべきなんであります。』からは私は全く遠いところに居る。
つまりは、私は縁なき衆生の一人だが、『まぁ、明日は死なないだろう』と思っている嗤うべき存在というところだろう。