釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

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雑談:『東京暮色』と犬の立ちション

2012-03-09 11:55:06 | 釋超空の短歌
2chの映画掲示板での『東京暮色』を流して読みしてみると、この映画の有馬稲子は概して評判が悪い。岸恵子だったら、もっと評価が上がっただろうという類の書き込みが目についた。小津安二郎は、当初、岸恵子を想定していたそうだが、岸の都合が付かず有馬稲子に替えられた、という経緯もあって有馬稲子に風あたりが強いのかも知れない。しかし、私は岸恵子より有馬稲子のほうが、この映画に合っているように思う。というより、もし岸恵子だったら、極論を言えば、違った映画になっていただろう。

小津安二郎の映画で私が最も好む映画は『麦秋』だが、この『東京暮色』も好きな映画だ。映画のタイトルの『暮色』が表しているように、小津の多くの他の映画の一種の華やかさは、この映画にはない。一種の華やかさとは? 比ゆ的に言えば、それは『花嫁衣裳』だが、それはこの映画にはない。『花嫁衣裳』は、それが父と娘の離別を意味しているとしても死別ではないし、つまるところ、それは人生の門出なのだ。『花嫁衣裳』における父と娘の孤独は、所詮は彼らの周りの人々の祝福に囲まれた孤独に過ぎない。私に言わせれば、その孤独は贅沢な孤独だ。 私は、小津映画の多くに、この種の『贅沢な孤独』を見る。(しかし、『麦秋』は少し意味あいが違っているが、ここでは、それは触れない)
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『東京暮色』は何度か観ているが最近観たのは数年前だから以下に書くことは勘違い等の誤りがあるかも知れない。ということを、ことわっておいて、この映画のいくつかの印象に残っていることを書こう。(この映画のストーリーは省略する)
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まず挙げなければならないのは、山田五十鈴の出色の演技である。「いぶし銀のような」という形容があるが、まさにそれである。杉村春子も「いぶし銀」のような俳優であるが、この映画の山田五十鈴は演技を超えている。この超演技は小津安二郎が最も狙っていたものであろうが、山田五十鈴は、その狙い以上の存在となっている。特に居酒屋の場面はその最適例であり、また、この映画のラストの場面もそうである。
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有馬稲子という俳優は、少なくともこの映画においては実に重い感じがする。重い感じとは? ここに池があるとしよう。その池に一枚の葉が落ちたとする。有馬稲子という葉は、その池で浮かんではいない。すこしづつ池の底へと沈んでいくのだ。(もし岸恵子だったら沈まなかったかも知れない)

この映画の、ある種の息苦しさは(---このような息苦しさは小津映画には稀有かも知れない---)この有馬稲子の、この重さに依っている。
この映画は罔(くら)い。暗いのではなく罔いのだ。この映画には『花嫁衣裳』はない。小津安二郎は、本来の意味の孤独をこの映画で撮った、と私は思う。
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有馬稲子が鏡台に向かって自身の髪の毛をとく場面がある。彼女は己の顔を鏡に写し何度も何度も何度も執拗に自身の髪をとき続ける。私はこの場面に異様な、なにものかを感じざるを得ない。女性が自身の髪をとく、という行為は、その行為以外の、なにものかの暗喩として私は受け取る。おそらく有馬稲子は己の生の罔さを凝視し続けていたのだろう。ここで、この映画の主題は『生の罔さ』だということが私は分かつた。
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最後にもう一つの場面。
山田五十鈴が笠智衆宅を訪れるために、傾斜の少ない坂道を上がって歩いてくる。
その坂道をあがりきったところに笠智衆宅があるのだが、その坂道の脇に電信柱が立っている。山田五十鈴がその坂道をあがりきるところで、うろうろと歩いている一匹の柴犬が映される。山田五十鈴はその犬には無頓着に笠智衆宅へ向かうのだが、カメラはその犬と山田五十鈴を正面からとらえている。

とすると、その犬が電信柱に向かって片足をあげて小便をする。ただそれだけの10秒にもみたない短いショットだが、私はこの場面が大好きなのだ。山田五十鈴と、その犬の立ちションとはなんら関係はない。しかし、このショットは小津安二郎の計算済みに違いない。これは小津流のユーモワだろうが、この何気ない犬の立ちションのショットが、この映画の主題『生の罔さ』に一灯を与えているような気が私はする。

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